親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

第71回

聖人は弟子たちにつねに仰せられました。「私が若いころ難行の小路に出て、本願他力の大道に入ることになったのは、ひとえに大師源空の教えによるものです。源空の本地は勢至菩薩です。また末代にふさわしい在家(肉食妻帯)の生活は、専ら如意輪救世観音のお告げに従ったお陰です。勢至と観音の二菩薩のお導きは、しかしながら万の機(一切衆生)を捨てないところに、そおの本意があるのです。よく知らねばなりません。阿弥陀如来と如意輪観音の教えは、不浄をきらうことはありません。私の門人であるならば、よくよくこの微妙な道理を深く思慮して味わっていかねばなりません。

 ○<住職のコメント>

月のカットは「安城の御影」という、親鸞聖人の肖像画です。親鸞83歳の像です。上部に『無量寿経』、下部に『正信偈』の直筆があります。現在の愛知県安城の門弟たちが、親鸞の教えを聞く中心として用いるために描かれたものです。墨染の衣に袈裟、着物は黒色で、朱色の下衣が襟元と裾にちらっと見え、太い眉、細い鋭い目で、口元は何か話しかけるような様子で、「うそぶきの御影」とも呼ばれます。 一番の特徴は持ち物です。狸(たぬき)の皮を敷き、猫の皮の草履(ぞうり)に、杖(つえ)の手には猫の皮が巻かれています。赤い火の見える火鉢と合わせ、寒い冬のお姿です。狸や猫の皮とお坊さんは少し結びつき難いように、常識では思われますが、これらがまさに、親鸞の日常生活や、教えを象徴する、肉食妻帯の生活者を表現するものです。
さらに、この持ち物は親鸞の思想形成の足跡を示すと、『親鸞始記』という本で、著者の佐々木正師は主張されています。
 朱色の衣は、後に子孫の存覺が、親鸞の生涯を語る『歎徳文(たんどくもん)』という文章を著し、その中で「何ぞ浮生の交衆を貪りて、徒に仮名の修学に疲れん。須らく勢利を抛てて直ちに出離を?うべし」と、比叡山を下りる理由を書いた如く、親鸞が嫌気を起こした、比叡山での権力争いを象徴する「歌会」で親鸞が下賜された朱色の衣を暗示します。
 火鉢と杖は、親鸞が29歳で山を捨てて法然の吉水教団に参画する決断の、直接的な出来事、六角堂への百日間の参籠を意味します。参籠とは、夕刻にお参りし、夜をその場で過し、朝にはまた比叡山へ戻る毎日を百日続けるのですから、厳しい修行でもあります。杖は歩く行き帰りを、火鉢は寒いお堂に籠る比喩ですその95日目の暁、午前2時から4時の、丑の刻に夢に聖徳太子を暗示する如意輪救世観音が現れて、「女犯偈」を受けるのです。

  行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽

「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯をしても、私が玉女という女の姿となって犯されよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう」仏教には、僧侶は一切女性に近づかないという厳しい戒律がありました。しかし、色と欲から生まれた人間が、それらから離れたら種が終わってしまいます。この矛盾に気づいた親鸞が、この夢告を受けたのです。これは男も女も全ての人間が、ありのままの姿で救われる、阿弥陀佛の絶対の救済のあることを教えた夢と受け取れます。
 その数年前に、京都北山の赤山禅院で出会った女性に、佛教教団の女人禁制の矛盾をやり込められて以来の課題が、この夢告となり、親鸞は妻帯を決意したのです。   。

―――以上『顛倒』2014年6月号 No.366より―――

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