親鸞聖人の生涯
〜『顛倒』連載版〜第5回
親鸞聖人御絵伝より
私が生まれたということはどうしておこったのか。
それについてどれだけ考えてもわからないのである。
なぜなら無限の条件が網の目のようにつらなっているからである。
それでは何のために生きてゆくのか。結局老いて死ぬために生きてゆくとも思われる。
しかし、もしそうなら、人生はいたずらな苦労をするためにあり、
あるいは、自然のいたずらとして人間がつくられたというような、
まったくわれとわが身を侮辱する卑屈な考えに沈んでしまわなくてはならない。
実際しかし、私という有限なものが無限の中からどうしてはじまったかを考えてみれば、
無限の条件が重なりあっていることがわかってくる。
そのあるものは、私が生きてゆくのに都合のよい条件となり、
あるものは私の意志を束縛する壁となる。
そして、そのいずれもが、やがて私の老いて死することにむすびついている。
この不可解な生と死は、私という人間に課せられた謎である。
この謎を解いて、私の人生というものが、
そのはじめなき無限の歴史に偉大な光明をプラスする意義をもっていることを明らかに見いだしたのが、
仏陀をはじめとするいにしえの聖者であって、とくに悪い条件のなかを人間として生きぬいて、
身をもってこの謎をあきらかにしたのが親鸞である。
―――東本願寺刊『親鸞読本』より ―――
○<住職のコメント>
親鸞は、1173(承安三)年、京都南郊、日野の地にて、
中級の公家、日野有範の長男として誕生され、幼名を公麿と言われた。
そして上の文章が、幼い頃の時代の様相である。
鴨長明が著した『方丈記』にも詳しく述べられているが、まさに「諸行無常」の有り様だったようだ。
だからこそ、親鸞が二歳の頃、法然が唱え始めた「専修念仏―ただ南無阿弥陀仏で私たちは救われるのだ」という教えも 広く世間に受け容れられたのだろう。 またいくら公家の息子とはいえ、親鸞もその時代の悲惨な有り様とは決して無縁ではなかっただろう。 そしてさらに親鸞には、時代の様相に加えて、個人的な「諸行無常」も加わるのである。 すなわち、三歳の時、父、有範が没し、弟、朝麿と共に伯父、範綱の養子となり、 さらに八歳の頃、母、吉光女も没したと伝えられていることである。 親鸞はそんな中にあっても、七歳の頃より、和歌、儒学など学問に親しんでおられたようだ。
そしてついに、1181(養和一)年、 青蓮院の慈円(後の関白九条兼実の弟、後の天台座主)の元で得度を受け、範宴と号すのである。 夜半に訪れた親鸞の得度の願いに一旦は「明日に」と断った慈円和尚が、親鸞の詠んだ
あすありと 思うこころの あだざくら 夜半にあらしの 吹かぬものかは
という和歌に感心してすぐに得度を許したという有名な逸話が代々語り継がれている。
この逸話は後世の創作だという説もあるが、それは現代の九歳の在り方から観た見方であると思う。 当時の15歳で一人前となる時代にあって、さらに大変な環境を過ごされ、 また和歌の素養の豊かな親鸞にとっては、そう不思議な話ではないと私(住職)は思っている。 また親鸞の生まれを「下級公家」としてきたむきもあるが、その見方はたぶん、 「階級闘争」的な見方による「持ち上げ」だと思われる。 親鸞の生まれた日野家が朝廷において「従五位」くらいまで出世できる「家柄」であったことや、 関白の弟である慈円の得度を受けていることなどから、 そう低い身分ではなく「中級公家」だと考えるのが妥当ではないかと思う。
だからこそ、親鸞が二歳の頃、法然が唱え始めた「専修念仏―ただ南無阿弥陀仏で私たちは救われるのだ」という教えも 広く世間に受け容れられたのだろう。 またいくら公家の息子とはいえ、親鸞もその時代の悲惨な有り様とは決して無縁ではなかっただろう。 そしてさらに親鸞には、時代の様相に加えて、個人的な「諸行無常」も加わるのである。 すなわち、三歳の時、父、有範が没し、弟、朝麿と共に伯父、範綱の養子となり、 さらに八歳の頃、母、吉光女も没したと伝えられていることである。 親鸞はそんな中にあっても、七歳の頃より、和歌、儒学など学問に親しんでおられたようだ。
そしてついに、1181(養和一)年、 青蓮院の慈円(後の関白九条兼実の弟、後の天台座主)の元で得度を受け、範宴と号すのである。 夜半に訪れた親鸞の得度の願いに一旦は「明日に」と断った慈円和尚が、親鸞の詠んだ
あすありと 思うこころの あだざくら 夜半にあらしの 吹かぬものかは
という和歌に感心してすぐに得度を許したという有名な逸話が代々語り継がれている。
この逸話は後世の創作だという説もあるが、それは現代の九歳の在り方から観た見方であると思う。 当時の15歳で一人前となる時代にあって、さらに大変な環境を過ごされ、 また和歌の素養の豊かな親鸞にとっては、そう不思議な話ではないと私(住職)は思っている。 また親鸞の生まれを「下級公家」としてきたむきもあるが、その見方はたぶん、 「階級闘争」的な見方による「持ち上げ」だと思われる。 親鸞の生まれた日野家が朝廷において「従五位」くらいまで出世できる「家柄」であったことや、 関白の弟である慈円の得度を受けていることなどから、 そう低い身分ではなく「中級公家」だと考えるのが妥当ではないかと思う。
―――以上『顛倒』08年3月号 No.291より―――
『顛倒』07年12月No.288〜08年2月号No.290は都合により休刊しました。
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