親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第62回

 聖人が五条西におられた時のことです。 常睦国・大部郷の庶民平太郎は以前から、聖人の教えに帰依する二心ない信者でした。 このたび用務が生じて紀州・熊野権現に参詣することになりました。 早速に聖人を訪ねて事情を話すと、聖人は「神に偽りありません。 熊野権現の本地は阿弥陀如来です。ただひとすじに本願を信じて誠をつくしなさい。 常没の凡夫の心のままで、無理に威儀をつくろう必要はありません。 これは決して神を軽んじているのではなく、和光の方便は人々を 仏道に導くことに本意があります。 ゆめゆめ神仏の加護を願わないように《とおっしゃいました。

−−−【親鸞聖人正明伝より】−−−


聖人故郷に帰りて往事をおもうに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。 長安・洛陽の栖も跡をとどむるに嬾しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまいき。 五条西洞院わたり、一つの勝地なりとて、しばらく居をしめたまう。 今比、いにしえ口決を伝え、面受を遂げし門徒等、おのおの好を慕い、路を尋ねて、参集したまいけり。 其の比、常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしという庶民あり。 聖人の御訓を信じて、専ら弐なかりき。 しかるに、或時、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、事のよしをたずね申さんために、聖人へまいりたるに

−−−【御伝承より】−−−


 一つには、一切の神明ともうすは(中略) 神明の方便にかりに神とあらわれて、 衆生に縁をむすびて、そのちからをもってたよりとして、ついに仏法にすすめいれんがためなり。 これすなわち、「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおわり《(摩訶止観)といえるはこのこころなり。 さればいまの世の衆生、仏法を信じ、念仏をももうさんひとをば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。 このゆえに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆえなり。
 二つには、諸仏・菩薩ともうすは、神明の本地なれば、いまのときの衆生は、阿弥陀如来を信じ念仏もうせば、 一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいわれあるによりて、 わが本懐とおぼしめすがゆえに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀一仏を信じたてまつるうちに、 一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆえに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、 一切の諸仏の智慧も功徳も、弥陀一体に帰せずということなきいわれなればなりとしるべし。

−−−【御文(蓮如上人)より】−−−


 ○<住職のコメント>

 今月も、京都の親鸞さんを、関東の門徒衆が訪ねてくる有吊な場面で、その問いは、 「浄土真宗の門徒が神社に参ってもいいでしょうか」というものです。 現代では、そんなことを気にするご門徒はほとんどおられませんが、 当時は現代以上に浄土真宗の教えがしっかりと門徒衆に根付いていた証しでもあります。
 親鸞の著書『教行信証』に「仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」とあるように 「神祇上拝」は浄土真宗の基本です。 ですから、それを問いにきた平太郎はとてもしっかりした真宗門徒であったと言えますが、 それに対する親鸞の応答は、「熊野権現の本地は阿弥陀如来です。 身を清めるとか特別な事はせずに、そのままお参りしなさい」というものでした。
 辞書を引くと、「権」とは「仮に《という意味です  から、 「権現」とは「本来の佛が、仮に神として現れた」という事です。 それを、蓮如上人は「仮に神と現れて、ついに仏法に勧め入れる方便」「南無阿弥陀仏にみなこもれる」と言い切っておられます。
 神社は、「何を勝手な事を」と言うかもしれませんが、 「権現」の意味はそうですし、 我が国では、明治維新の強引な「神仏分離」までは、 千年に渡って神々は佛を守る神として位置付けられ共存してきた歴史社会的事実があります。 親鸞も頭の思いではなく、日本の風土の中に在るという事でしょう。

―――以上『顛倒』2013年8月号 No.356より―――

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