親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第54回

瑞興寺像
瑞興寺所蔵像

嘉禄の年、聖人五十四歳、天の童子の告げによって、下野国・大内の庄に寺を建立なさいました。
 聞くところによると、この地は底無し沼でしたが、一夜にして高く隆起して地盤の強固な土地になりました。
それでこの地は高田と言います。おそらく聖人の金剛の信心のはたらきと、神仏のお助けによるものでしょう。

 また夢告によって信州善光寺の分身の如来も感得されて、この寺に安置しました。 すぐに勅号を賜り専修阿弥陀寺と号をしました。 後に真仏房にあずけることとなりましたが、これが今の高田専修寺です。

−−−【親鸞聖人正明伝より】−−−

 

 ○<住職のコメント>

現代では、浄土真宗というと東西本願寺教団が主流ですが、 これは、親鸞の八代目の孫、蓮如が、その絶大な行動力で、親鸞の教えを全国に伝えてからのことで、 それまでは、親鸞の教えを受け継いだ主な教団は、親鸞の直弟子の流れが護持してきた、この高田専修寺や、京都澁谷の仏光寺でした。
他にもいくつかあり、今は「真宗十派」が「真宗教団連合」という集まりを作って、協同教化を行っています。

『親鸞聖人正明伝』は、この高田専修寺に伝わる親鸞の伝記で、江戸時代ころまでは一番正統な親鸞伝とされていました。

 その後、東西本願寺の反論や、さらに明治以降の近代歴史学の資料偏重の考え方から、 その内容に多くの迷信的な記述や伝承が含まれている事から、歴史的価値がないとされてきました。
しかし最近は、力の弱い所にも日が当てられるようになり、 また「物語から史実を読み取る」姿勢も出てきて、再評価されつつあります。
昨年の親鸞聖人750回御遠忌で催された「親鸞展」にも、高田派などから、 親鸞の多く史料が展示され興味深いものとなりました。 高田派は親鸞初期の関東教団の流れを直接受け継ぐ教団ですから、 親鸞に関しては本願寺より多くの史料が残されているのです。さて、高田専修寺の解説をしましょう。

 親鸞は、この『正明伝』にあるように、関東各地を教化に歩く中で、夢のお告げを得て、 現在の栃木県真岡市高田の地に、専修念仏の如来堂を開かれました。 ご本尊として、長野の善光寺の一光三尊佛を安置したとありますが、親鸞は「善光寺聖」であったという有力な説もあります。 親鸞はここに7年間居住され、各地から集まった多くの門弟や農耕者たちが、 高田の如来堂で親鸞のお話しを聞き、ひたすら念佛されたと言います。
 この高田教団は、関東の門徒集団の中で最も有力な教団のひとつとなり、 後に帰洛した親鸞は、何度も自筆の手紙や書写した書物などを送っています。
 中心は、真仏(しんぶつ)という直弟子。真岡城主、大内国春の息子で、 十七歳で聖人の弟子となったと伝わる方です。 これから読み取れることは伝記では「夢のお告げ」となっていますが、 事実は、真岡城主が親鸞に、帰依し自分の地元で土地を寄進し、 スポンサーとなって念仏道場を開いてもらったのではと思われます。 これなどは、お釈迦さまの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を思わせる出来事です。
 その後、高田教団は、江戸中期に、庇護する大名が、栃木から三重に、 移封されたことに伴って、本山を津市一身田に移して現在に至り、 栃木県真岡には「本寺」として残っています。

一身田の専修寺には、十数年前、瑞興寺からバスでご門徒と訪れました。

―――以上『顛倒』2012年11月号 No.347より―――

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