親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第45回

親鸞聖人御絵伝
瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝

 『三部経』(さんぶきょう)、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、 信連房(しんれんぼう)の四の年、武蔵の国やらん、上野(かんずけ)の国やらん、 佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、 常陸(ひたち)へはおわしまして候いしなり。 

−−−【恵信尼消息】−−−




 聖人は伊勢国・桑名から東海道を下りました。 まず常陸国・下妻の小嶋の郡司武弘の館に到着しました。 京都におられた時、まず越後へという気持ちもありましたが、武弘は昔聖人と親しかったために、 そのよしみを忘れずに、たびたび使いを出して招きましたので、 そのよしみを忘れずに、たびたび使いを出して招きましたので、小嶋に向かわれたのでした。 しばらく滞在したその年の冬、雪の降る前に越後へお立ちになりました。これは四十歳の時です。 四十一歳、四十二歳の間は越後に居住しながら、信濃や上野あたりを徘徊して教化に努められました。 その後横曾根の性信房は郡司武弘の一族で、関東の多くの弟子の中でも古い弟子でしたので、 武弘が迎えに越後へ遣わしたのでした。 お迎えは支障も無く順調に運んだので、郡司は大いに喜んでそれ以降以降、 ただひとすじに聖人の教えに帰依して、ついに建保四年丙子十一月、六十余歳で立派な往生を遂げました。 ふだんは豪胆な武士と見られていましたが、菩薩の心が深い人でしたから、臨終の様子を聞いた人々は大変に羨みました。

−−−【親鸞聖人正明伝】−−−


 ○<住職のコメント>

 冒頭の3行は親鸞の妻である、恵信尼の手紙です。 大正十年、西本願寺の蔵から発見されて親鸞の実在が歴史学的に証明されたという文書です。 ここには、「親鸞が42歳の頃、衆生利益のために、上野国(こうずけのくに・現在の群馬県)佐貫で三部経千部読誦を発願して、 4、5日で止め、その後、常陸(現在の茨城県)へ行った」と述べられています。 これなどは、今月の『正明伝』の、「41、2歳の頃、越後、信濃、上野あたりを、 教化に巡っておられた」という記述を、例によって、本願寺中心史観には無い物語ですが、 裏付ける事ではないかと、私は思います。 また当時の親鸞を「善光寺聖(ぜんこうじひじり・信濃の善光寺の阿弥陀如来信仰を広めるために、 阿弥陀三尊の仏像を御簾に背負って各地を遊行して廻る、念仏の行者)」とすれば、 まことに当てはまるストーリーでもあります。 この「千部経読誦」を止めたことをもって、「自力を捨てられたのだ」と、 真宗の坊さんが衆生利益しようとすることを批判する向きもありますが、はたしてそうでしょうか。 親鸞が発願されたのは、飢饉などで多くの人たちが飢え死にしたりしていることを救おうとしてですが、 千部読むには、1回を一時間としても1000時間。一日20時間としても50日もかかる、大変厳しい修行です。 それを思い立たれたということは、比叡山でよくされていた修行だと考えられます。 そして、それを思いとどまれたということは、衆生利益を止めたのではなく、 お経の力によって救おうと考えたことを反省されたのであって、そんな時間があるなら、 一杯の水、一口の粟でも施そう、人々が迷信やうわさなどに迷わないように、 真実を説いて回ろうと決断し直されたのだと、私は受け取っています。 それが『現生十種の益』の、一つとして説かれる「常行大悲の益」なのです。

―――以上『顛倒』2012年2月号 No.338より―――

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