親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第25回


[御伝鈔 より]
 善信(ぜんしん)(まうし)(いはく)。 などかひとしと(もうさ)ざるべきや。 其故(そのゆえ)深知博覧(しんちはくらん)に ひとしからんとも(もうさ)ばこそ、まことにおほけなくもあらめ。 往生(わうじゃう)信心(じんじむ)にいたりては、 ひとたび他力信心(たりきしんじむ)のことはりをうけたまはりしより以来(このかた)(また)くわたくしなし。 (しかれ)聖人(しょうにん)御信心(ごしんじむ)も、 他力(たりき)より(たまは)らせたまふ。 善信(ぜんしん)信心(しんじむ)他力(たりき)也。故(なりかるがゆえ)に、 ひとしくしてかはるところなしと申也と、 (まうし)(はべり)しところに、 大師聖人(だいししょうにん)まさしくおほせられて(のたまはく)、 信心のかはると申は、自力(じきり)(しん)にとりての事也。 すなはち智慧(ちえ)各別(かくべち)なるがゆへに、 信又各別也。他力の信心は、善悪(ぜんあく)凡夫(ぼむふ)ともに (ぶち)のかたよりたまはる信心なれば、 源空(ぐゑんく)が信心も、 善信房(ぜうしんぼう)の信心も、さらにがはるべからず、 たヾ(ひとつ)なり。 我かしこくて(しん)ずるにあらず。 信心のかはりあふておはしまさん人々は、わがまいらん浄土(じょうど)へはよもまいりたまはじ、

 善信は「法然上人の智恵や学問について同じだと言えば、とんでもないひがごとになりましょう。しかし他力の信心については、上人からその道理を初めて受けたまわった時から、念仏を頂く私心はまざりません。上人のご信心も仏からたまわられた信心です。善信の信心もまた仏からたまわりました。どうして違いがあるのでしょうか」と主張して、決着がつきませんでした。  法然上人がそれを耳にして「自力の信心であれば、その人の智恵の浅深により違いがでてくるでしょう。けれども他力の信心は仏からたまわる信心ですから、私も他の人も、信心においては一つであって、少しも違いはありません。皆さんもよく心得ていて下さい。もし信心が異なっている人々は、私の参るであろう浄土へは、まさか参ることはないでしょう」と。この話は建永元年(一二〇六・三十四歳) 丙寅秋の頃だったということです。

―――親鸞聖人正明伝より―――



 ○<住職のコメント>

瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝

瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
「如来よりたまわりたる信」の続きだが、要点は、法然さんの「自力は智慧格別だが、他力は頂くものだから同じ」という指摘である。現代の私たちの一番の問題が此処に示されている。現代は、まさに競争社会、より多く、より強くの社会で、その中で、「自分の力」をつけることに係り果てていたり、自分の力では解けないと落ち込んでみたり、どちらも「自分の力」を疑いもしないで、もがいているのではないか。しかし、たとえ、より多くが叶えられたとしても、もっともっと欲していくのが関の山ではないか。一度立ち止まって、頂いているものに気付いてみてはどうか。  私は今、生きている。誰が誕生させてくれたのか。この大地は、この空は誰がくれたのか、ひとつでも自分が作ったものなどあるのか。山ほど大きな種々なものを頂いているのに、それらに気付かずに、その大きな山のてっぺんに生えている木の枝ぶりだけを見て比べて、どうこう言っているのではないか。仏の教えは、上へ昇らせるのではなく、横に超えさせて問題を解いて下さる、事実を気付かせる教えなのだ。

―――以上『顛倒』2010年2月号 No.314より―――

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