親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第38回

後鳥羽院(ごとばいん)御宇(ぎょう)法然聖人(ほうねんしょうにん)他力本願(たりきほんがん) 念仏宗(ねんぶつしゅう)興行(こうぎょう)す。
干時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事。

 一 法然聖人御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。
聖人は土佐国 香田 という所へ流罪、罪名藤井元彦男 云々、 生年七十六歳なり。
 親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
 浄円房 備後国、澄西禅光房 伯耆国、好覚房 伊豆国、 行空法本房 佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。 しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々
 遠流之人々巳上八人なりと云々
 被行死罪人々。
 一番 西意善綽房
 二番 性願房
 三番 住蓮房
 四番 安楽房
 二位法印尊長之沙汰也。
 親鸞改僧儀俗名(しんらんそうぎをあらためてぞくみょうたまう)仍非僧非俗(よってそうにあらずぞくにあらず)然間以禿字為姓被経奏間畢(しかるあいだとくのじをもってしょうをなしそうもんをへらおわんぬ)彼御申状、于今外記庁納云々(かのおんもうしじょう いまにげきのちょうにおさまると)
流罪以後愚禿親鸞令書給也(るざいいごぐとくしんらんとかかしめたまうなり)

  右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。
           ------ 釈蓮如御判

 ○<住職のコメント>

 この文章は、親鸞の説法を活き活きと、弟子の唯圓が書き留めた『歎異抄』の最後に添えられた「流罪の文」である。 『歎異抄』の本文に「大切な証文を添える」という記述があり、 これがその証文だとの意見もあるが、いかにも異質な文書である。 その最後に、親鸞の八代目の孫、蓮如が「無宿善の者には歎異抄を読ませない」と注意書きを添えているのも興味深い。
 私は率直に、親鸞の浄土真宗を頂くには、この流罪・死罪という法難を外してはならないと、 唯圓は言いたいのだと、受け止めている。 住蓮坊、安楽坊の死罪が行われたのは、2月9日であるが、親鸞は終生、その日を大切に憶念しておられる。 親鸞最晩年、その信心の精華が語られる正像末和讃、 『弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり』には、 康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云という言葉が添えられている。 その時、親鸞は85歳、流罪の時は35歳だから、ちょうど50年前の、この承元の法難を憶いつつ感得されたのが、 この和讃、弥陀の本願信ずべし なのだ。朝廷や権力者がどうこうではない。 ただ南無阿弥陀佛と称すべし。

―――以上『顛倒』2011年6月号 No.330より―――

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