親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第7回

瑞興寺御絵伝06

 人間は、たんに学校のなかだけでなく、広くかつ深く、はてしなく学習をしなくてはならないが、 その場合まず何のために学習するかが問題である。 その目的が他人ではなく、自分にとって明らかでないと、 他人にいわれて、いやいやながらしなくてはならなくなる。 他律的な試験勉強は学習ではなく、自虐的な遊戯の一種である。 しかしだからといって、安易に遊ぶことをそのために正当化しようとするのは、 貧しい精神からくることである。

 人間が学習する目的は、学習したことがら、 ものの法則によって自分をふくめた人類の自由と解放をかちとって、 真の大満足を見いだすところにある。 したがって学ぶ対象は当然、人類に自由と解放を与える道であり、法でなければならないであろう。 そういう道が仏道であり、仏法といわれる。

 科学であっても、歴史学であっても、文学や音楽であっても、 そういう大悲願にたってのみ、学ぶに値する学問となるのである。 いたずらに人類を迷わせ、苦しませ、はては死を招くような勉強は、 原水爆の発明のように、それ自体人間への害毒であり、それは自分を束縛し、無用に苦しめる。

 人類の自由と解放をかちとる法を聞き、 法を学ぶものが「まことに大悲を行ずる者」といわれるのである。

―――東本願寺刊『親鸞読本』より ―――

           

 ○<住職のコメント>

 お参り先で、子供さんやお孫さんの学校の話になることがあります。 いわゆるイイ学校に行かれると、喜んでそれを語られるのですが、 私は皮肉ではなく「単に勉強だけではダメですよ、広く学問されないと」と申し上げます。 そして、「世の中で大きな悪い事をしている人はみんなイイ学校を出た人ですよ」とも。 少し前のことになりますが、「ホリエモン」も「村上」ファンドも、東京大学卒業の方でした。 最近「ウバ捨て」と批判されている「後期高齢者」も考えたのは、ほとんど東大、京大出のお役人です。

 イイ学校を出た人は、なるほど能力はあります。 でもそれを使う方向をまちがうと、力が大きいですから、かえってタチが悪いのです。 また、いわゆる頭の良い人は、「こうなるはずだ」という計算ばかり先に立って、 現場の気持ちがみえなくなるという欠点もあります。 先ず大切なのは、基本的な方向です。

 仏教では「自利利他円満」といわれるような、あらゆる生きとし生けるものが、 そのいのちを輝かすことができるような方向、 それがはっきりして初めて勉強した力をチャント使えるようになるのです。

―――以上『顛倒』08年5月号 No.293より―――

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