親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第22回

 元久二年乙丑(一二〇五、三十三歳)の春、綽空が吉水の法然上人のもとを訪ねると、おそばに誰もいませんでした。 法然上人はひそかに『選択集』を手渡して「大勢の弟子の中でも、貴方は他力の信心がはっきりしています。 この本は私が撰集した、みだいりに人には見せない大切な書物です。はやく書き写しなさい。決して他の人に見せないように」と言われました。

―――親鸞聖人正明伝 より―――



[教行信証後序]
元久(げんきゅう)(きのと)(うし)の歳、 恩恕(おんじょ)(かぶ)りて 『選択(せんじゃく)』を(しょ)しき。 同じき歳の初夏(そか)中旬(ちゅうじゅん)第四日に、 「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)」の内題の字、 ならびに「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 往生之業(おうじょうしごう)  念仏為本(ねんぶついほん)」と、 「釈の綽空(しゃっくう)」の字と、 空(源空)の真筆(しんぴつ)をもって、これを書かしめたまいき。 同じ日、空の真影(しんねい)申し預かりて、 図画(ずえ)たてまつ)る。 同じ二年(うるう)七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって、「南無阿弥陀仏」と 「若我成仏十方衆生(にゃくがじょうぶつじつぽうしゅじょう)  称我名号下至十声(しょうがみょうごうげしじつしょう)  若不生者不取正覚(にゃくふしょうじゃふしゅしょうが)  彼仏今現在成仏(ひぶつこんげんざいじょうぶつ)  当知本誓重願不虚(とうちほんぜいじゅうがんふこ)  衆生称念必得往生(しゅじょうしょうねんひつとくおうじょう)」 の真文(しんもん)とを書かしめたまう。 また夢の告(ゆめのつげ)に依って、綽空(しゃっくう)の字を改めて、 同じき日、御筆(ごひつ)をもって名の字を書かしめたまい(おわ)りぬ。


          

 ○<住職のコメント>


[現代語訳]

元久二年、有り難いことに、法然先生の著作『選択週』の書き写しを許された。 初夏には、その写本に、『選択本願念仏集』という正式名と、 「南無阿弥陀仏」そして「往生之業 念仏為本」(浄土に往生する行いは念仏が中心である)という言葉と、 私の名前「釈綽空」を先生自らが書き加えて下さった。 同じ日には、法然先生の肖像画を書き写すことも許された。 七月には、その肖像画に自ら讃文を書き加えて下さった、それは、「南無阿弥陀仏」と、
若我成仏十方衆生→もし私(阿弥陀佛)が佛に成ったとしても、あらゆる人々が
称我名号下至十声→私の名前、南無阿弥陀仏をたとえ十回でも称えて
若不生者不取正覚→もし浄土に生まれることが無いなら、私は覚りを開きません(と阿弥陀佛は誓われている)
彼仏今現在成仏→彼の佛は今まさに佛に成られているのだから、
当知本誓重願不虚→知りなさい、この誓いは重ねて願われ虚ろなことはなく、
衆生称念必得往生→念仏申す人たちは間違いなく浄土に往くことができると
という真実の言葉である。
 また私の受けた夢のお告げに依って、綽空という私の名前を改めて新しい名前を書いても下さった。

<住職のコメント>
吉水教団に加わってたかだか四年、多くの先輩たちをさしおいて書写を許された事は、 親鸞の非凡さとともに比叡山での実績を示す謗証であると私は思う。 またこの時に「綽空」から「親鸞」になったという説もある。

―――以上『顛倒』09年10月号 No.310より―――

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