親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第53回

親鸞聖人御絵伝
親鸞聖人御絵伝

元仁元年(一二二四)末娘の覚信尼が生まれた。 これよりさき承久三年(一二二一)七月、世に悪評高い承久の乱がおこり、 鎌倉の軍勢はなだれをうって京都へ乱入、軍事力によって朝廷および聖道門の勢いを封殺し去った。 後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇はこのため遠流(おんる)にせられ處せられ、 天下の大勢はわずか二三年がほど北條義時の掌中にあった。 しかし元久元年六月、義時は死し、再び日本社会は暴風駛雨(しう)に吹きさらされることとなった。 このなかから親鸞は、真の人間を成就せんとして、「教行信証」製作を思いたった。 著作の影響が思いのほか大きくかつ深いことを、 すでに法然上人の「選択集」公刊によって、感じていたからでもあろう。

−−−【親鸞読本より】−−−

 

如来般涅槃(にょらいはつねはん)の時代を (かんが)うるに、周の第五の主、 穆王(ぼくおう)五十一年壬申(みずのえさる)に当れり。 その壬申より我わが元仁(げんにん)元年(がんねん) 甲申(きのえさる)に至るまで、 二千一百八十三歳なり。また『賢劫経(げんごうきょう)』・ 『仁王経(にんのうきょう)』・『涅槃(ねはん)』等の説に依るに、 (すで)にもって末法に入りて六百八十三歳なり。

−−−【教行信証より】−−−

 ○<住職のコメント>

 元仁元(1224)年、親鸞52歳です。この年、末娘の覚信尼が誕生します。 覚信尼は、その後の親鸞の、人生また大谷派宗門にとっても、大きな位置を占める方です。 親鸞が京都で命終するときに付き添っていたのは、彼女でした。 その後、夫、小野宮禅念の土地に、親鸞の墓、廟所を建てて留守職となり、それがその後、 覚信尼の孫、覚如が、その廟所を本願寺としていくのですから、我が宗門にとっても、とても重要な方です。
 またこの年、親鸞は、その著書『教行信証』に「元仁元年は、お釈迦さまの没後、2183年経っており、 末法に入って683年である」と記しています。

 『末法』とは、仏教の歴史観のひとつで、お釈迦様の没後五百年または千年を正法‐教えが正しく伝わる時期、 次の千年を像法‐教えのイメージだけが伝わる時期、その後は一万年の末法−教えが無くなる時期という歴史観です。 日本では平安時代の頃から現実視され、釈迦滅後1500年の、1052年(永承7年)は、社会の混乱と相まって、 末法元年として、人々に恐れられました。 この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭する動乱期で、 治安が乱れ、天変地異も多くあり、民衆の不安は増大していました。 またさらに、その不安を安らげるべき仏教界も、僧侶の堕落や、 僧兵といった武力による政治への介入などで権威を失墜し、救いにはなりえませんでした。 このように仏の末法の予言が、現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、 この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していったのです。また仏塔を建てるなどの善行にすがる人も増えました。

この時代を生きた、法然や親鸞の教えは、 末法の世にあって「末法濁世の衆生は、阿弥陀仏の本願力によってのみ救済される」=「ただ南無阿弥陀佛」= 「称名念仏による救済」を説き、圧倒的に民衆に受け入れられたのです。 親鸞も、もちろん、この歴史観を大切にして、『正像末和讃』と名付けた膨大な和讃を詠んでいます。 また今も浄土真宗の一番大切な法要である、親鸞の仏事『報恩講』の最後に勤まる和讃は、 この『正像末和讃』の一節なのです。 「親鸞読本」にある如く、専修念仏を弾圧した上皇たちが、その地位を追われ、 また追い払った者も、またその座を追われるという現実を前にして、 今更の如く「末法に入って/683年」と慨嘆されたのでしょう。 また、この時すでに『教行信証』を書き始めておられた証明でもあり、 末法の世にあって、今こそ「ただ南無阿弥陀佛」の教えを明確に書き記し、 現世に警鐘を鳴らし、未来へ書き残そうという、親鸞さまの固い決意が見て取れます。

―――以上『顛倒』2012年10月号 No.346より―――

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