親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第68回

瑞興寺御絵伝68
79歳 一二五一年(建長三年)辛亥
常陸国の門徒の間に臨終来迎 有念・無念の諍論がおこる 閏九月二十日書状を送ってこれをいましめる
この年(推定)十二月二十六日
門弟教忍に返書を送って常陸国の念仏者間の一念多念・有念無念の諍論をいましめ『唯信鈔』の熟読をすすめる

−−−【真宗聖典 東本願寺刊 より】−−−


 ○<住職のコメント>

「臨終来迎」とは、この世のいのちの終わるとき、極楽浄土と呼ばれる、大いなるいのちの世界から、 阿弥陀佛が観音菩薩、勢至菩薩を伴ってお迎えに来てくださるという、仏教の教えである。 現代のような科学技術の世の中に於いては、「何をアホな事」「迷信」と思う方も多いと思う。 しかし、昔はそれが当たり前で、悪い行いを重ねた偉い人ほど、お迎えを願って、宇治の平等院のように、 浄土を形どったお寺に阿弥陀佛像を安置して、浄土往生を祈ったのだ。

それは庶民も同じで、人々の信仰を今も集める、長野の善光寺にお参りすると、 雲に乗った仏様がよく描かれているが、皆お迎えの佛さまである。 そんな臨終来迎が当たり前の世の中で、親鸞は「不確かな臨終を待つことはない。 南無阿弥陀佛の信の定まる時、即得往生だ」と画期的、本質的に説いたのだ。

 しかし、それが当たり前でなく「死んだら無になる」とか「死んだらゴミや」とか言う現代にあっては、 臨終来迎、お迎えを説いて、「お浄土に還って、諸佛のお一人に成られる」と住職としては、 言わなければならないと、私は思う。 曽我量深師が「往生は心に、成佛は身に」と仰ったのも、その意味であろう。
 一方、「有念」とは、具体的な姿・形のあるものを、心に観想する事。 阿弥陀佛や極楽浄土を具体的に思い浮かべる事。

「無念」とは、迷いの心を離れて無我の境地に入り、何事も思わない事。 その論争があったというが、同じ質の疑問は今でもよくある。 それは、「ナムアダブツを唱える時、どんな気持ちで唱えればいいのでしょうか」という質問である。 「無になって唱えるのか、何かを思い浮かべるのか」と。 親鸞の答えは「どちらでもない」である。 そして『唯信鈔』を勧めるのである。「ただナムアミダブツの信なのだ」と。

 私が親鸞に出逢った学校、大谷専修学院の院長であった、 信国淳師はよく、「念仏申しましょう」と、 「ナムアミダブツ」「ナムアミダブツ」と唱えておられたらしいが、 「何を思っていてもかまわない」という事だと思う。

 例えば、無に成ろうとして、できるだろうか。 思えば思うほどいろんな妄念妄想が渦巻くのが私たちであろう。 考えてみると人間の悩みや苦しみは、皆、頭が創りだしている。 なるほど、人生に於いては、いろんな出来事がある。 病気を得る事も、失恋する事も、事業に失敗する事も、そして、死ぬ事も必ず在る。 でもそれが、いやだ、しんどい、観たくない。 恨み、妬み、嫉み、になるのは、まさに私の思いが思っているわけで、頭がそうしているのである。 まさに佛が、説くごとく「人間は頭で歩いている」のだが、 そこで「ただナムアミダブツ」、「何を思っても構わないが、とにかく、唱えることに執着しなさい」と。 そこに念仏の御利益がある。

 人間の問題は執着心にあるが、形あるものに執着することが問題なのであって、 南無阿弥陀佛のような形の無いものには、いかほど執着しても害は無い。 むしろ謎の言葉を唱えるうちに、頭のピンがはずれて、自在に動けるようになるのである。

―――以上『顛倒』2014年3月号 No.363より―――

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