親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第32回

 法然さんや親鸞さんが流罪にされた、朝廷による念仏弾圧、承元 の法難(1207年・親鸞35歳)は、旧仏教界からの訴えが、 きっかけとなって起こりました。それが当時の佛教界を代表する、 奈良の興福寺の興福寺奏状で、念仏者の九つの失を指摘しています。 10月はその第七です。

興福寺奏状(こうふくじそうじょう)

第七 「念仏」の本来の意味を誤解するというあやまり
「念仏」とは、本来、「アミダ仏のことを心の中に思いこめる」ことであって、 「アミダ仏の名を口に唱える」こと(称名)とは区別されています。
 このことは、『観無量寿教』にも書かれてあるうえ、かれらの尊敬する中国の善導(ぜんどう)もいってることです。 そのうえ、単なる口唱よりも、心に思いつめる「念仏」のほうが(すぐ)れている、とされているのです。
 それだのに、かれらはこれを混乱して、「ナムアミダ仏」と口に唱えさえすればいいといいおもい、 それをまちがって「念仏」と名づけているのです。

−−−古田武彦著『親鸞 人と思想』より−−−



 ○<住職のコメント>

瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝
第七は、念仏の本来の意味を誤解する失。
 第六は「浄土の意味を間違っている」という指摘でしたが、 第七の失は、さらに「念仏」に対してです。
 浄土理解への批判も皮肉なことですが、「ただ念仏」を究極の教えとする、 私たち真宗門徒に対して、「念仏の意味を誤解している」という批判は、もう皮肉を通りこして、 非難している方々が、何か可哀そうになってきます。 まさにここにこそ、法然、親鸞の教えの素晴らしさ、独自性があるのです。

 本来「念仏」は、この非難にもあるように、「仏を念ずる」ことで、 心に仏や仏の世界(浄土)を思い浮かべることであり、旧仏教でも、とても大切にされていました。 比叡山などでは、南無阿弥陀仏と口に唱えながら、不眠不休で七日七晩も御堂の回りを巡るような荒行があります。 その挙げ句に浄土の姿が心に浮かぶのですが、現代から見れば、一種の幻覚のようなものだったでしょう。 場合によったら、行者が「うそでも見えた」といったこともあったのではと思われます。
 親鸞も比叡山時代にそのような荒行はしていたのですが、彼はどうしても、自分をごまかすことが出来なかった方だったのではないでしょうか。

 そこで到達したのが「他力」の念仏です。

 修行して見える、見えないことが問題にされるのは、あくまで自分の力を尽してということです。 その努力は大切なことですが、しかしそれは結局、この私が何か良いものになって救われていこうという、人間の上昇志向、まさに「煩悩」そのものなのです。

 そんな人間の根性で、この罪悪深重の私が何とかなるのか? なるわけが無い!ということが、法然、親鸞の気付きでした。
 そこで「念仏」の大転換が起こりました。
 それまでの「念仏」は、こちらから向こうへ、阿弥陀佛に向かって、手向ける「念仏」だったわけですが、 法然、親鸞の「念仏」は、阿弥陀佛から、向こうから来る(如来)念仏、他力=阿弥陀佛の力に依る「念仏」なのです。 言葉は同じですが、方向が全く違います。

 阿弥陀佛が「この私」に目を付けて見捨てない。その「証」が、私たちの口に出る南無阿弥陀仏です。 そして、その唱名は、称名、すなわち阿弥陀仏の名につりあうこととなって、 そこに、阿弥陀佛の願いを我が願いとする、新しい私が誕生するのです。

―――以上『顛倒』2010年10月号 No.322より―――

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