親鸞聖人の生涯

〜『顛倒』連載版〜

 第43回

親鸞聖人御絵伝
瑞興寺所蔵 親鸞聖人御絵伝

 建暦二年(一二一二、四〇歳) 壬申仲秋(八月)の中頃に上洛しました。 八月二十日すぎに岡崎中納言範光卿と共に赦免の御礼を申し上げました。 京に戻った最初は、すぐに法然上人のお墓にまで詣でて、繰り返し師弟の縁の短かったことを嘆かれました。 また御礼に参内された後、九条兼実公のお墓と玉日姫のお墓に詣でて、涙ながらに読経いたしました。 印信もお供しましたが、玉日姫のお墓の前ではその時の気持ちが蘇って、悲しみの涙にくれながら思い出などを語りました。 母君が臨終の時にまで「貴方の父上は罪をなくして流され、遠い地で苦労しておられます。 私が亡くなったら、越後のお父上のもとにへ、私の言ったことを詳しく伝えて下さい」 と言い残したことを泣き泣き繰り返すので、聖人も一緒に涙にくれました。

 その年の九月、聖人は山城の国・山科村に一寺を興しました。 武蔵野国の荒木源海の願いを受けてのことです。今の興正寺がこのお寺です。

−−−【親鸞聖人正明伝】より−−−




   聖人越後の国より常陸の国をに越えて

−−−【御伝鈔】−−−


 ○<住職のコメント>

 今月の文章は、私が、「基本的に正しい親鸞伝である」と考えている、『正明伝』の記述で、 「親鸞が流罪を許された翌年の8月に一旦、京に戻ってお墓まいりをした」という内容です。 一方、本願寺の正当な伝記である『御伝鈔』には、全く上洛の話はなく、「越後から常陸へ行った」とあるだけです。 通説でも、「法然が命終されて、上洛の意味が無いので、直接関東へ移られた」とされています。 私の考えは微妙です。普通は、『正明伝』に軍配をあげているのですが、これは確信がありません。 京都に戻られたとしたら、また遠い関東へ行かれることは不自然かな、越後から直接、関東への動きの方が、善光寺の念仏聖の動きなどから自然かなと思うからです。

 しかし一方。いくら法然が亡くなったとしても、ここに書いてあるように、お墓まいりをしたいと思うのが人情かなとも思うのです。 親鸞さんは、25日のお念仏と言って、法然の命日の仏事をしっかりと生涯勤められた方ですから、 私は、生涯の師、最初の妻、そして世話になった恩人の墓に参られるのは、親鸞さんらしいとも思うのです。 関東へ行かれる強い動機が見つかれば、この上洛が事実と言えるのではと思っています。

 もう一つ、今月の文章で微妙なのは、最後の2行、「興正寺を興した」という記述です。 こんな話は、本願寺にとっては、まずい話なので、上洛の事を一切『御伝鈔』は無視したのか、とも思えます。 また、「親鸞は一寺も建立せず」という言い方で、今の本願寺教団の在り方を批判する向きもあるのですが、 そういう方からは、「正明伝 はインチキだ」という、ひとつの理由になるでしょう。 一方、「一寺という言葉が使われているが、これは関東でも開かれた念仏道場のことだ」と解すれば、 親鸞の活動の広がりを示して、何の問題もありません。 今月は、あえてこの文章を取り上げたのですが、誠に微妙です。

―――以上『顛倒』2011年11月号 No.335より―――

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