まつりごと<任那>(1)
〜神話的表現を考える〜
| 欽明天皇二十三年(五六二)新羅(しらぎ)にうばわれた任那(みまな)の地の復興は、大和朝廷最大の課題であった。 摂政について以来、太子もまた歴代天皇の遺志を継(つ)いで、任那復興の準備をすすめた。その際、難波(なにわ)の地に建てられた四天王寺(してんのうじ)は、国外への玄関口として、外交上重要な意味を荷(にな)った。 推古天皇八年(六〇〇)、境部臣(さかいべのおみ)を大将軍とする大軍を派遣し、任那の地を回復したが、しかし日本軍が撤退すると、新羅はふたたび任那に侵入した。太子は弟の来目皇子(くめのみこ)を将軍として征討をはかったが、皇子の死により中止、さらに異母弟の当麻皇子(たいまのみこ)を将軍に任じてその実現をはかったがはたさなかった。以後、任那征討の軍は派遣されなかった。 この挫折(ざせつ)を機に、太子の眼は、もっぱら国内の充実にそそがれることとなった。(東本願寺発行「太子讀本」より) |
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| <住職のコメント> 今年から「顛倒」に「聖徳太子」を連載し、また事あるごとに「親鸞さんの浄土真宗は聖徳太子を抜きにしては解らない」と言っているが、先日、ある後輩から、「朝鮮半島に攻め入ろうとした人を大事にするのはおかしいのではないか」と問われた。僕はすぐに、「あれは、他国を侵略したのではなく、親鸞さんが“前の世は百済国”と言われるように、聖徳太子の先祖は朝鮮の出身なんだから母国からSOSが来て助けに行ったんだ」と答えた事がある。 現代の歴史学では、認められていない事かもしれないが、僕は「絶対にそうだ」と思っている。現代の学問の問題のひとつは「神話」を全て否定してしまっている事にあると僕は考える。例えば『神武東征』。神武天皇がホントにいたかどうかは分からないが、少なくとも後に「神武」と名付けられる、ある勢力が、朝鮮から九州に渡り、そこで力を蓄え、瀬戸内海を東に渡り、正面の難波は守備が強固だから避けて、裏へ回り、熊野から大和へ攻め込んだ事の神話的、物語的表現であろう。その時、大和の勢力から、神武に寝返った熊野の豪族がヤタガラスなのである。「天照大神」がこもった岩戸も、古代の皆既日食のことだとある本にあった。思えば、仏教も物語、神話的表現で伝えられている。この辺りが、現代人に理解しにくくなっている所以だろう。「亡くなったおばあちゃんはお星様になってずっと見てくれてはるよ」さあ、ウソかホンマか !? |
―――以上 『顛倒』04年9月号 No.249より―――
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