まつりごと<摂政>(2)

〜常に坐禅を好む小乗禅師に親近(しんごん)せざれ〜

 太子の言葉に「常に坐禅を好む小乗禅師(しょうじょうぜんじ)に親近(しんごん)せざれ」というのがある。
 手をよごし汗にまみれなければならないような生活の場に背をむけて、ひとりしずかなところでひたすらに坐禅をつづけているもの、そういうものは小乗禅師であるから親しみちかづくなといわれる。
 小乗禅師、それはわが身ひとりをきよくたもつことしかかんがえない、彼らは周囲の人がどれだけ傷つきなやんでいようと、そのことにすこしも心を痛めることがない。かれらは仏法を求めている人ではあっても、自分一人楽をしたい、良い目したいと考えている世間の人たちと、結果的にはかわりなく、自己を清しとするたかぶりだけがつよいといわねばならない。
 政治は、ひとびとの生活をすこしでもよりよくしようとする人間の努力である。そしてそれは、人間の生活、社会生活には欠くことができないものである。ただしかし、政治の現実は、ひとつのイデオロギーを奉じた機構・組織の権力による戦いというかたちをとる。政治は勝負の世界であり、勝ち負けの世界であり、さらには、勝てば官軍の世界である。その世界はまことに不安定であり、空しくすらある。一朝反乱がおこりクーデターが成立するや、昨日までの権力者が被告席にしばられて死を宣告され、今までおこなわれていた、したがって時の権力によってひとびとがそれにしたがわせられてきた、社会のありかたすべてがまちがいであったと改革される。今日、そのような政治権力の不安定、空しさはいよいよはげしい。
 政治の世界にかかわることはいかにもうとましく、また空しいことのようにもおもえる。政治的な努力のみで、人間が真に心の安らかさをおぼえ、豊かさを身につけえたことは、かつてなかった。だから、そのような権力の世界に背をむけ、おのれひとりの世界をしずかにまもろうとするところに、小乗禅師の生きかたがあるのである。たしかにそのことによって、彼は政治の垢(あか)にまみれることもなく、きよく生きることができた。しかしその清さというものは、現にいま飢えに苦しみ、社会悪に悩むひとびとの、苦悩にみち悲しみにあふれた叫びを無視することによってまもられている清さでしかない。けれどもほんらい清さというものは、それによって周囲のひとびとをもきよめることによってのみ意味をもつものなのであろう。ひとびとをきよめるどころか、ひとびとの苦悩を無視することによってのみたもたれるような清さほど無意味で無内容なものはあるまい。(東本願寺発行「太子讀本」より)





<住職のコメント>
 
この「小乗禅師」のような人は、現代のお坊さんに多いように思うが、それも仕方がない事である。明治以降、それまでお寺が担っていた、学校、病院、福祉の役割がみな公益法人として独立し、お寺はその手足をもがれたダルマさんになってしまったのだから。でも今や、その手足が頭を失って漂流している。今こそお互いがもう一度、結び合わねばならない。仏教は真実の生き様を示すものだから、政治、経済、教育、あらゆる事に関係する。
 

―――以上 『顛倒』04年7月号 No.247より―――


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