青春の環境(3)

〜人間存在の危うさを問い続けて〜

 権力の座をあらそって戦いをつづけていた馬子・守屋らと、社会的な地位をあらそって友だちをも競争相手としてしかみられなくなっている現代のわれわれと、あらわれかたこそちがえ、その愚かさにはすこしもかわりがない。法華経(ほけきょう)には、そのような人間の愚かさを、朽ちはてて、しかも火がもえさかっている屋敷のなかで、そうとも気づかずに自分たちの遊びに夢中になっている子供たちの姿として説かれている。考えてみればそれはわれわれの日常の姿そのものなのだ。
 もちろんわれわれでもそのときそのときの問題に苦しみなやんでいる。けれどもその問題をほんとうに荷ない、問いつづけるということができないのだ。状態がすこしかわっただけで、けっして問題が根本的に解決したわけではないのに、もう安心しわすれてしまう。病気でも、それが治(なお)ってしまえばもうそれでひと安心、けっして病気を機会に、人間のしあわせのはかなさ、人間存在というものの危うさに目ざめ、それを問題として荷なうということはない。
 そのなかにあって、あの時代にひとり太子はその暗い世界に目ざめておられた。そして、そのような愚かしい姿でしか生きられない人間の痛ましさをヒリヒリはだに感じておられた。
 あらそいにあけくれている人間の生活のすべて、善だ悪だと主張しあい、勝った負けたとさわいでいる在りかたそのものを痛ましいすがたとして、人間というものを根底から問いなおさずにはおれないような、そういう問題を太子が荷なっておられたことだけはたしかである。正法念経(しょうぼうねんぎょう)には、智恵(ちえ)あるものがあたかも牢獄に囚(とら)えられているようなおもいで憂い悩んでいるときに、その同じ環境を、愚かなものはまるですばらしい夢の国のように有頂天になって喜び楽しんでいる、ととかれている。ちょうどそのように、太子はひとり目ざめておられたのである。そのみいだしていられた問いの大きさが、仏教をとおしてその人間性を徹底させていったのだ。偉大な人、智恵ある人とは、そのように偉大な問いをみいだし、それを徹底して問いつづけた人のことなのである。(東本願寺発行「太子讀本」より)
 

<住職のコメント>
 
イラクでの戦争を見て、「ブッシュやフセインを批難しても、戦争が無くなる訳ではない。人間の問題なんだから」と言われた先輩僧侶がおられた。
 私は、「だからといって戦争に賛成するわけではないんでしょう。その人間の悲しい問題を、どう表現してくれはるんですか?」と問いかけた。
 その場ですぐ応答はなかった。が、課題はまさにそこなのではないか。特に仏教者としてその人間存在が持つ根本の問題、結局自分が可愛い。自と他を分別して、他を敵とする在り方を、「だから、仕方がない」ではなく、そのような在り方を「罪」だと感じられるような一人の人間の誕生を願って、どう語り、どう自分自身を表現するのかが問われている。
 

―――以上 『顛倒』04年5月号 No.245より―――


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