救世観音(4)

慈悲の働き・観音菩薩
   智慧の働き・勢至菩薩〜

 太子の心は、決して力弱く貧しい者にのみ向けられたのではない。力弱く貧しい人たちの事実をとおして、人間の歴史的な現実そのものを深く痛まれたのである。現在、目にしている人々だけではない。さらに広く、末の世の人々にまで、その心は向けられていたのである。
 もともと、観音または観世音というのは、人々が諸々の苦悩を受けた時、この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を称(とな)えるならば、観世音菩薩はそのとき即時にその音声を観じて、その苦悩をことごとく除かれる菩薩という意味である。人々の称える音声を観ずる―心の一切の執(とら)われを除いて、人々の音声をもって我が身を満たす。苦悩から逃れたいというその声を自分の声とし、自分自身とするということである。その姿は、あの豊聡耳命(とよとみみのみこと)と呼ばれた太子の姿そのものである。あらゆる立場の、どのような声でも、ことごとく聞きとり、聞き分けられたということこそ、観音の姿そのものなのである。
(東本願寺刊「太子讀本」より)
救世(くぜ)観音大菩薩 聖徳(しょうとく)王と示現(じげん)して
多々
(たた)のごとくすてずして 阿摩(あま)のごとくにそひたまふ

南無阿弥陀仏をとなふれば 観音勢至
(せいし)はもろともに
恒沙塵数
(ごうじゃじんじゅ)の菩薩と かげのごとくに身にそへり

【親鸞聖人御和讃】


<住職のコメント>
 
阿弥陀仏の働きは昔から、観音菩薩と勢至菩薩で表現される。観音は慈悲、勢至は智慧を表わしている。慈悲と智慧とのふたつが相まって、人々が救われるというのだ。親鸞聖人は、「聖徳太子は観音様であり、父(多々)、母(阿摩)の如くに人々のあり様に寄り添って下さる」と言われている。
 一般には、勢至より観音の方が人気が高い。観音は千手観音とか、十一面観音とか、いろんな種類もあって、なじみが深い。それに対して勢至菩薩はあまり、お目にかからない。なぜだろう。智慧は難しく、慈悲は優しいからだろうか。でも、智慧という本当に物事を見極める目が無ければ、慈悲と言い、「救う」と言っても本当には成り立たない事は当然の事であろう。

―――以上 『顛倒』07年4月号 No.280より―――

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