救世観音(5)
〜思い通りにならない人生を
渡らせて下さる阿弥陀の願船〜
人間は喜びを独(ひと)りじめしようとすると同時に、苦しみをも自分だけのこととして、身の不運をなげき、世をうらむものである。しかし事実は、人間として生きている限り、誰にでも、その形こそ変われ、苦しみはあるものである。だからもし、苦しみが無くならぬ限り人間が救われぬものならば、およそ生きている限り人間は絶望していなければならない。 救われるということは、決して苦しみが無くなることではない。苦しみを悩まなくてすむようになったことである。どんな苦しみであっても、それを自分の命の内容として豊かな心で生きてゆくことができ、かえってその苦しい状態を生き抜いてゆくことに生きがいをすら見出す力が与えられたことである。 苦しみを更に悩ますものもまた、私心である。だから人はすぐに、誰も私の苦しみを分かってはくれないとうらんだり、私の苦しみが他人(ひと)に分かってたまるものかと力んだりするのである。そして結局、孤独感が人を絶望に追い込むのである。 (東本願寺刊「太子讀本」より) |
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける 【龍樹(りゅうじゅ)菩薩和讃】 無明長夜(むみょうぢょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ 【正像末(しょうぞうまつ)和讃】 |
<住職のコメント> お釈迦様は、人間の生き死にについて、「一切皆苦」と言われます。親鸞さまはそれを「暗い海」にたとえられます。「苦」とは、「思い通りならないことだ」とお釈迦様は、重ねて言われます。そう言われると、「なるほど」とうなずけます。私たちの生活が、どれほど思い通りにならないかは、それぞれ思い知っていますよね。神社のお札やお守りを見ると、それが、よく判ります。 親鸞さまは、「私たちの人生は、暗い海に浮かんでいるようなものだ。でも、そこに阿弥陀の船があるのだ。」と言われます。「思い通りにならないものだ」と深くうなずけた時、思い通りにならない人生を遊々(ゆうゆう)と渡っていけるのです。 |
―――以上 『顛倒』07年5月号 No.281より―――
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