救世観音(1)

〜救世観音の化身と慕われた
聖徳太子の死

 推古天皇二十九年(六二一年)十二月、太子の母、穴穂部間人大后(あなほべのはしひとのおおきさき)が死去した。そのころから太子も健康を害し、年明けた正月、太子と妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は共に病床に倒れた。
 斑鳩宮は憂いに閉ざされ、人々は病気平癒(へいゆ)を祈ったが、その甲斐もなく推古天皇三十年(六二二年)二月二十一日、妃が世を去り、翌日、その後を追うかのように、太子も静かにその生を終えられた。時に四十九歳であった。太子と后の遺体は、母のもとに葬られた。三骨一廟と言われる磯長(しなが)の御廟である。太子は聖徳皇と崇められ救世観音化身と慕われて、日本人の生活の中に生き続けている。

 <日本書紀より>
 夜半、厩戸豊聡耳皇子命(うまやどのとよとみみのみこのみこと)は、斑鳩宮で亡くなられた。
 この時、もろもろの王(おおきみ)、もろもろの臣(おみ)、そして天下の人民は、ことごとに、老いたる者は愛児を失ったごとく、塩酢(しおす)の味、口にあるも嘗(な)めず、また幼ない者は慈(いつく)しめる父や母を亡(な)くしたごとく、その泣きわめく声は行路(みち)に満ち満ちた。
 すなわち、田を耕(たがや)す者はその鋤(すき)を動かすのを止め、春(いね)をつく女(め)は、杵(きね)音をさせようともしなかった。そして人々は口々に「月日は輝(ひかり)を失ってしまい、天地は既に崩れた、今より以後誰を恃(たの)みとすればいいのか」と嘆き悲しんだ。
 この月、上宮太子の遺体は磯長陵(しながのりょう)に葬られたのである。
(東本願寺刊「太子讀本」より)

【親鸞聖人御和讃】
和国の教主聖徳王 広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり 奉賛不退ならしめよ



<住職のコメント>
 
遂に聖徳太子の命終を迎えた。49才とは、昔の方々の早熟さを思う。「日本書紀」には太子の死が美しく描かれているが、実は毒による暗殺ではないかという見解もある。それも一族が皆殺しにされるような厳しさだったとも言われている。
 思えば、太子ほどの改革者、すなわち、仏教という新しい思想を導入し、貴賤浄穢という枠組み、秩序を破壊して、人々の水平な関係を創り出そうとした方であったから、その反発も大きかったのではなかろうか。その辺りの詳細はさだかではない。しかし、太子の人となり、思想が、多くの民衆に「世直し」への期待を伴って、慕われてきた事はまちがいのない事実である。日本各地の多くの太子ゆかりの地がそれを示している。

―――以上 『顛倒』06年12月号 No.276より―――

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