夢殿(5)

〜「才知あるものの浅さ、狭さ」

 人間の才知などというものは、どんなに優れたものでも、浅く狭いものである。なるほど一時は才知あるものが世にもてはやされ、人々を導くかのようにも見える。けれども単に個人の才知からのみ生み出されたものは、結局同じ才知ある人々にしか通じない。たとえその歩みが遅々としたものであっても、人間そのものの根底に触れ、その心の内奥に触れたものだけが、時代を越え、国を越えてあらゆる人々の心にたえず語りかけ、響いてゆくのである。そういう言葉、行為のみが歴史を生み出し、歴史となってゆく。そして実は、人間の才知というものも、そういう歴史に触れてはじめて大きな力となって働くことができるのである。
 いっさいの私心を捨ててひたすら仏法に聞く時、仏法はおのずとその人の身にあふれ、その人の上に生きて働くのである。それが思惟(しゆい)の本来の姿であり、夢殿はその思惟の場であった。夢殿は沈黙の世界である。しかも真に人々を動かす言葉というものは、その沈黙の中からのみ生まれてくるものなのである。
(東本願寺刊「太子讀本」より)

【親鸞聖人御和讃】
よしあしの文字をもしらぬ人はみな まことの心なりけるを
善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり



<住職のコメント>
 
今号で取り上げた文章は「そうだな」と思いつつも、現実を観(み)ると「ウーン」と考え込んでしまう。なるほど仏教を学んでみると、二千数百年も前のお釈迦様の言葉が、今も、人間の本質を教えて下さるし、八百年前の親鸞さまの行動が自分の道標(みちしるべ)になって下さる。それはそれらの「深さ」ゆえであるとは思う。
 しかし、現実の私たちの流れはどうだろう。派手な言葉やパフォーマンスに惑わされ、扇動
(せんどう)されて何度も同じ過ちを繰り返して、歴史を作っているのではなかろうか。浅く狭いものに結局は取り込まれてしまっているではないか。
 でもそこで「そんなものさ」ではなく、「何とかしたい」となりたいものだ。

―――以上 『顛倒』06年11月号 No.275より―――

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