夢殿(4)

〜仏教者屑籠論

 右の立場にも左の立場にも等しく応えてゆくということが現実にできることなのか。もしできぬとすれば、いかなる慈善の事業も所詮(しょせん)むなしいではないか。「一切衆生病めるをもって、この故に我病む」と維摩経に説かれている菩薩の姿こそ豊聡耳なる人の姿であるが、それはもう人間の個人的な才知や誠実さ、愛情の深さなどというものでは耐えることはできない。その耐えることのできない苦悩が太子をして仏法を求めしめたのであるが、そのことはまた、その仏法が太子をしてすべてのひとびとに根元的に応え得る道を求める苦悩を与えたとも言えるであろう。
 摂政としての努力をとおしていよいよ身に実感されたものは自己の無力であり、人間の愚かさの限りない深さであった。太子は夢殿にこもって静かに仏の言葉に耳を澄まされた。仏の前にひざまずかれたのである。
 夢殿は人間の具体的な生活の場を離れて在(あ)る。それは一見逃避のごとくにも見え、観念の遊戯にふけっているようにも見える。しかし事実は、釈尊の教えによって、すべての人々を仕合せにするために、どんなに苦難に満ちた世界にも一人して歩みいることのできる力を身につけ、いかにすれば真実の道を人々の生活の道として具体的に表すことができるかを、深く思惟されていたのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 

【親鸞聖人御和讃】
上宮皇子方便し 和国の有情をあわれみて
如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉賛せしむべし
<住職のコメント>
 
ここ数年、ビハーラ活動に力を入れている。「ビハーラ」とは仏教精神に基づいて、人の「生老病死」を、特に「死をどのように受け容れていくのか」という視点を持って人を支える運動であるが、その中で「傾聴(けいちょう=耳を傾けて人の話を聞くこと」がとても強調される。ある先生は、「仏教者屑籠(くずかご)論」を説かれる。「そっと人々に寄り添い、悩み苦しみをはき出してもらう屑籠であるべきだ」と言われるのだ。「ウーン、まいったな」と思う。まま僕達お坊さんというのは、ベラベラとしゃべり、自分が正しい事を主張しがちなんだよね・・・。

―――以上 『顛倒』06年10月号 No.274より―――

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