夢殿(3)

〜かすかなつぶやきにも耳を澄ます

 太子の名として豊聡耳命(とよとみみのみこと)・豊聡八耳命(とよとやつみみのみこと)の名がしるされ、また、同時に十人の訴えごとをすべてあやまたず聞き分けられたと伝えられている。それらは、太子がいかに智恵すぐれた方であったかを語るものとして伝えられてきた。けれどもそれは、ただ単に太子の智恵すぐれた姿をのみ語るものではあるまい。耳が聡(さと)く豊かであるとは、どんな微(かす)かで小さなつぶやき、旅に飢えている名もなき旅人の声なき声をも聞きもらさずに耳を傾けることができたということでもある。
 十人の声を同時に聞き分けられたということは、どんな立場、どんな思想に生きる人の声をも平等に聞かれたということでもある。聞き分ける力をもっていられたというだけでなく、おそらくは太子にとってそれは、太子ご自身の意志をも越えて聞こえてくるのであろう。太子にはどんな声をも聞き流し、聞き捨てるということができなかったのだ。あらゆる立場の人のどんな言葉も聞き捨てにできないとは、なんと辛(つら)いことであろう。太子はその一人一人に応えずにはおれなかったのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
【親鸞聖人御和讃】
十人一度にまふすこと
ひとりももらさずきこしめす
ことわりいますによりてこそ
豊聴耳
(とよききみみ)とはまふしけり



<住職のコメント>
 
『聖徳太子読本』をずっと読んできているが、今回のこの部分は特に「目からウロコが落ちる」感じであった。太子が「同時に10人の訴えごとを聞かれた」エピソードは以前から知っていたけれど、単に頭の良いことにしか受け取っていなかった。ここにあるように、それはそんな浅いことに留まらず、それ程、注意深く耳を澄ましておられたということ、それが真の「賢さ」なのだなと思う。
 ここで私は、あの詩人宮沢賢治の「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という言葉、東京の山谷で「自分の弱さだ」と炊き出しを続けられた梶大介さんの「地球の裏側で針が落ちる音も聞き取れる程、耳を澄ましていたい」という言葉を思い出す。これが真の仏教者のあり方なのだと思う。それはまさに「敵か味方か」と単純化してしまう、どこかの国の首相のあり方などとは対極に位置するものである。「なんと辛いことであろう」と『読本』は述べる。どれほど辛くとも、自分の場に責任を持って立ち、種々の意見を聞ける者になる事がそれぞれに願われている。

―――以上 『顛倒』06年9月号 No.273より―――

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