夢殿(2)

〜仏の教えに順(したが)う行動〜

 推古天皇二十年(六一二年)、宮中(きゅうちゅう)では大宴会がもよおされた。ひとびとはわが国の新しい出発に心を躍らせていた。そうした日の一日、片岡山に遊行(ゆぎょう)した聖徳太子は、飢えと疲れに倒れている旅人に出会い、食べものと衣服を与えた。「安らかに臥(ふ)せよ」と。
 万葉集にはまた上宮聖徳皇子(うえのみやのしょうとくのみこ)・竹原井(たけはらのい)出遊(いでま)ししとき、竜田山(たつたやま)の死(みまか)れる人をみて悲傷(かなし)びて御作歌(つくりませるうた)」として、「家に在らば妹(いも)が手枕(たまかむ草枕 旅に臥せるこの旅人(たびと)あはれという歌が残されている。
 太子は薬猟・祝宴ののどかなさざめきを背にして、凝然として、この旅に飢えひとり寂しく死んでゆく者の姿を見つめていられる。片岡山の飢人は太子の問いにも関わらず、その姓名を答えない。摂政たる太子に姓名をもあかさぬ旅人の心の孤独は、太子の心にしみこみ、あふれる。飲物(おしもの)を与え、その衣裳(みけし)をそっと旅人の上に被(かぶ)せかける、それだけが今の太子にできることであったのだ。太子の悲痛は癒しがたく深い。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
     【親鸞聖人御和讃】
   飢え人死にてその後に
   紫の御衣とりよせて
   もとのごとくに皇太子
   着服してぞおわします
<住職のコメント>
 
親鸞聖人は、聖徳太子をとても大切になさっている。だから、浄土真宗のお寺であれば、どこであっても、本堂に聖徳太子の絵像がまつられている。また、親鸞さまは多くの和讃で、太子の言動を讃(たた)えられていて、ここに取り上げたのも、そのひとつである。
 親鸞さまが太子を重く見られるのは、基本的には、仏教という当時の新しい思想を取り入れて、それで日本という国を治めようとされたことである。すなわち仏教を単なる思想、言うだけのものであったり、心の問題などに矮小化するのではなく、具現化(ぐげんか)されたことである。
 それも「いのちを大切に」などという抽象的なものではなく、極めて具体的であったことが、この和讃から伺(うかが)える。この和讃には『善悪淨穢(ぜんまくじょうえ)』や『身分』といった、この世の秩序を軽やかに乗り越えられる太子の姿が描かれている。紫の衣という高い身分の象徴を行き倒れの死者にかけ、その“穢れた”衣を、また着る太子が、そこにおられる。仏の教えに身も心も順(したが)う行動である。

―――以上 『顛倒』06年8月号 No.272より―――

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