青春の環境 (1)

〜「仏」−ほとけとブッダ(目覚めた人)〜

 このころ、政治は有力な豪族によって左右され、とくに崇仏(すうぶつ)、排仏(はいぶつ)をめぐっても蘇我(そが)、物部(もののべ)の二大豪族ははげしく対立していた。
 太子十四歳のとき、父、用明天皇は即位二年目にして崩御(ほうぎょ)次期皇位継承をきっかけとして両豪族は正面から衝突、内乱の火ぶたがきられた。結果、太子の二人の叔父は殺害され、物部氏ははほろび、崇峻(すしゅん)天皇の即位により、ようやく平穏を回復することができた。
 しかし天皇と権力を独占しようとする蘇我氏との不和は天皇弑逆(しいぎゃく)という事態をまねき、ここに太子はただひとりのこされた母方の叔父をもうしなったのである。ときに十九歳、身辺にうずまく悲惨な事件のなかで、青年時代を耐えしのばねばならなかった太子は、怒涛(どとう)にただよう一枚の葉のごとく大きく揺れうごいていたにちがいない。(東本願寺発行「太子讀本」より)
 
 善光寺の如来の/われらをあわれみましまして
 
 なにわのうらにきたります/御名をもしらぬ守屋にて


 そのときほとおりけともうしける/疫癘あるいはこのゆえと
 
 守屋がたぐいはみなともに/ほとおりけとぞもうしける


 やすくすすめんためにとて/ほとけと守屋がもうすゆえ
 
 ときの外道みなともに/如来をほとけとさだめたり


 この世の仏法のひとはみな/守屋がことばをもととして
 
 ほとけともうすをたのみにて/僧ぞ法師はいやしめり


 弓削の守屋の大連/邪見きわまりなきゆえに
 
 よろずのものをすすめんと/やすくほとけともうしけり

  親鸞八十八歳御筆
<住職のコメント>
 ここに取り上げたのは親鸞さんの和讃だが、物部守屋が、仏をほとけと呼んだ事を、大変怒っておられる。そしてそれは現代にも続いている・・・。
 「仏」を「ほとけ」と読んだとき、ほとんどの人の抱くイメージは「亡くなった人」ということ、だから、「仏教」とか「坊さん」とか「お寺」と言っても「それは死を扱うところ」となってしまう。「仏」の本来の意味、「ブッダ-Buddha」は「目覚める」「自覚した方」という意味で「死んだ人」などという意味は全く無い。「そうか!僕たちの苦労は物部守屋に始まっているのか」そういった、ある意味でひとつの「日本の伝統」に立ち向かった一人の人が聖徳太子であった。日本人だけの勝手な思い込みでなく、いつ・どこの・誰でもがそうだと言えるものに自らの根拠を置こうとされた方だった。そして今、僕たちもまさにその事が問われている。


―――以上 『顛倒』04年3月号 No.243より―――


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