和国の教主 聖徳王 (3)

〜人皆党(たむら)有り、亦達(さと)れる者は少なし〜

 <小林秀雄「蘇我馬子の墓」より>
 仏教というものが、文化のほんの一つの分野となった現代にいて、仏教即ち文化であった時代を見る遠近法は大変難かしい。太子に宿った思想の、現実的な烈しさというものが想像し難い。歴史を読むときに起る不思議である。この驚くほど早熟で聰明な人が、若い頃から、到る処に見たものは、血で血を洗う、ただもう何とも言い様のない野蛮というものであったに相違ない。仏典を齎(もたら)したものは僧であるが、これを受取ったものは、日本最初の思想家なのであり、彼の裡(うち)で、仏典は、精神の普遍性に関する明瞭な自覚となって燃えた、燃えあがった彼の精神はただ偏(ひとえ)に正しく徹底的に考えようと努めたに相違ない。
 太子の信じた思弁の力は太子自身のものであったが、又万人のものでもあった筈である。
 「人皆党(たむら)有り、亦達(さと)れる者は少し(十七条憲法@より)」思想の力が、彼をそういう者に仕立て上げる。そして、「我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚に非ず――相共に賢愚なること、環の端なきが如し(十七条憲法Iより)」という困難な地点まで連れて行く。
 十七条の訓戒なぞ、誰も聞くものはない。守るものはない、それを一番よく知っているのは、これを発表した当人である。どうしてそんな始末になったか当人も知らない。彼の悲しみは彼の思想の色だ。
 本当によく自覚された孤独とは、世間との、他人との、自分以外の凡(すべ)てとの、一種微妙な平衡運動の如きものであろうと思われるが、聖徳太子にとっては、任那(みまな)問題も、隋(ずい)との外交も寺院建立等の文化政策も、そういう気味合いのものではなかったろうか、そして晩年に至り、思想が全く彼を夢殿に閉じ込めて了(しま)ったのではなかろうかと推察される。書記は、有名な「旅人あはれ」の不思議な物語を記して後七年間、太子について殆ど何事も記さず、突然の死を報告している。やがて斑鳩宮(いかるがのみや)は焼け、蘇我氏は太子一族を亡(ほろぼ)す。夢殿の秘仏を最初に見た者は、親鸞であって、フェノロサではない。太子の思想を、その動機から、その喜びと悲しみから、想像しようとすると、どうしても、人間と名附けるより他はない一つの内的世界の、最初の冒険者という様なものが思われてならぬ。(東本願寺発行「太子讀本」より)
<住職のコメント>
 
「3人居れば、2人対1人に別れる」と言われる如く、人間はすぐに群れを作り、そしてよくない事に、多数の群れが、少数の群れを踏みつけにする。よくある事である。でも聖徳太子は「だから仕方がない」とは、言われない。「相共に賢愚」ということは、「同じく凡夫として共通点がある」ということだ。先ず共通の土俵がどこにあるのか、何なのかを互いに確かめたいと思う。そうして議論を始めよう。みな主張は違うだろう。でも共通の土俵を確かめつつ、異なった意見をぶつけ合うとき、「群れ」を超えた、「第3の道」が紬(つむ)ぎ出される。それを求めたいものだ。
 

―――以上 『顛倒』04年2月号 No.242より―――

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