夢殿(1)

〜経世済民としての経済

 推古十三年(六〇五年)、聖徳太子は飛鳥小墾田(あすかおわりだ)の天皇のもとを離れ、数里隔たった斑鳩(いかるが)の地に「斑鳩宮」を造営、そこへ居をうつした。そして亡き父の願いを実現するために、斑鳩寺の建立にかかったのである。この寺は今になお、仏法興隆の願いを伝えてその壮麗な姿を法隆寺として残している。
 摂政としての政治的実践は、太子にとって捨身の行であった。人々の苦しみをやわらげ、その生活をやすらかなものとするための努力に太子は生涯をかけられたのである。そしてその努力は一応の結実を見た。国内はとにもかくにも平穏であり、国家としての秩序も整ってきた。
 四十歳近くになると、摂政としての太子の生活にもようやく平和の日々が訪れたと思われる。この頃の斑鳩宮の中に、太子は思惟三昧(しゆいさんまい)の場を設けたと伝えられる。のちに夢殿と呼ばれるものである。そこで仏典をひもとき、様々な問題にひとり思索をめぐらす日々が多くなった。
 それは決して、摂政としてなすべきことはすべてなし終わり、その目的も一応果たせたという安心感などによるものではなかった。それどころか摂政として政治的な努力をつくしその限りでの効果をあげ得た時、そこにあらわになってきたものは、かえって政治的な努力でなし得ることの限界ではなかったか。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
<住職のコメント>
 
「経済」とは、昔の中国の言葉、「経世済民」から来た言葉。経世とは、「世を経べる」ですなわち政治。済民は、「民を済(すく)う」で、すなわち宗教である。だから、本来、政治・宗教・経済は分けられないもの、「宗」すなわち、「中心となる」「教」えが、人間のあるべき姿を示し、それを具体化するのが「政治」、それら全ての人が生きる、あり様を「経済」と呼ぶのが、本来の意味なのである。
 しかるに現在、経済は金を稼ぐこととなり、政治は金を稼ぐ手段になりはてている。そんな中で人の心が荒れるのは当たり前ではないか。「いい学校」へ入って「いい仕事」について、と言うがその「いい」は、「金を稼げること」になっていないか。そんな事だから、少年は、家を燃やして自分の人生リセットしたくなるのではなかろうか。


―――以上 『顛倒』06年7月号 No.271より―――

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