とつくに(4)

〜お金を活かして用いる「品格」

 三宝の法は決して財物を拒否するものではない。ただその法は、たとえ財物がなくても心豊かに暮らすことのできる力を人に与え、財物があればいよいよそれをそれにふさわしく活かして用いうる心を育てる。つまり三宝の法、それは真に人間の命を愛し尊ぶ道であるが、その心が根底にあってはじめて財物は真に財物としてはたらき、文化は文化としての輝きを持つのである。その自覚が、大国隋に対する「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙(つつ)がなきやいなや」という太子の言葉なのであろう。もしその自覚もなくしてこのような文字を書きしるされたのだとしたら、それはただの強がりであり、虚勢でしかない。そのような虚勢は、たとえ国家的な必要あってのことであろうとも、太子が最も遠ざけられたことであった。
 遣隋正使小野妹子の「日本朝廷は、海西の菩薩天子(隋の煬帝のこと)が仏法を興隆しておられると聞いて、挨拶(あいさつ)のため、また僧数十人を遣(つか)わして仏法を学ばしめるために、私を派遣したのであります」という言葉は、その意味で、隋との国交をすすめられた太子の心を端的に物語っているものと言えよう。
 どこまでも仏法を立場としているところに、大国隋に対しても、太子は独立国日本として対等に交わりを結ばれたのであり、その上に立って先進国隋の秀れて豊かな文化を謙虚に、ひろく摂取してゆかれたのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
<住職のコメント>
 
お寺のホームページにお札のカットとは、ビックリされたかもしれないが、これは昔の五千円札、一万円札である。聖徳太子は、その頃まで、日本のお札の象徴であった。その頃のお金には、もちろん今よりもっと値打ちもあったし、『財物を活かして用いる』心を持つ太子をシンボルとして、お金にもっと『品(ひん)』があったと思う。
 それが、30年程前から福沢諭吉といった明治の人物がシンボルになるにつれ、バブルやファンドやと、お金が「軽く」なってしまったと思われてならない。
 元々、お金は物の交換手段であったのに、今や、アメリカが印刷するだけのモノであり、事物と関係なく、金が金を生むようなこととなって、昔のキツネやタヌキの化(ば)かし合いの木の葉のお金と本質的には変わらないものなのである。情けないことだけれど、だからこそ『活かして用いる』『大切に使う』ことに心をくだかねばならない。そんな『品格』こそが、どんな大国にも対等に独立する国を創っていくのだと思う。

―――以上 『顛倒』06年6月号 No.270より―――

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