とつくに(3)

〜世間虚仮 唯仏是真

 聖徳太子は単に大陸の高い文化にあこがれられたのではない。太子は既に文化のむなしさ、危うさを鋭く見つめておられた。たとえば田村皇子に残された遺言「財物(ざいもつ)は奉るべし。しかれども財物は亡(ほろ)びやすく、しかして永く保つべからず。ただ三宝の法はたえず、もって永くつたうべし」、そしてまた、后多至波奈大女郎(きさきたちばなのおおいらつめ)が天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘にぬいこんだ太子の言葉「世間虚仮(せけんこけ)・唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」、どちらも、文化に対する厳しい批判の言葉である。
 財物は亡びやすいと太子は言われている。この言葉は、財物そのものが絶えざる流行のうちにあり、昨日争って求められたものが今日はもう見向きもされないということ、あるいはどんなに立派なものでも形あるものは必ず壊(こわ)れるということ、そういうことをももちろん意味するのではあろうが、「世間虚仮」と言われた太子の心から振り返ってみれば、財物を生活のたのみとするような人間の心そのものが否定されているのであろう。
 もともと、人間生活を豊かにするものを財物・宝と呼ぶのである。ところがたとえば、今まで貧しいながらもなごやかに暮らしていたものが、思いもかけず手にすることのできた大金をめぐって醜く争い、互いに疑いの眼を向け合うようになったということが、現実にはしばしばある。また金持ちになってからかえって物おしみするようになったという人はいくらでもいる。世間的な財物・宝を無上の価値あるものとして追い求めれば求める程その欲望は強まり、ついに心の満たされる時がない。結局、宝が宝としての意義を持たずに、かえって人々の心を貧しく汚れたものにしてしまうのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
世間虚仮 唯仏是真


<住職のコメント>
 
「世間虚仮」などと聞くと、すぐにしたり顔で「世間のことなどどうでもよいことで、ナンマンダ仏だけが真実だ」などと言う方がおられるが、とんでもないまちがいである。そんな方はこの言葉を他ならぬ、聖徳太子がおっしゃていることを忘れておられるのだろう。
 日本で第一の権力者として、徹底して世間の只中で、仏法に基づく国、「和国」創りに尽力した方がおっしゃっているのである。「世間虚仮」とは、「世間の価値を絶対化してはならない」という教えである。思えば六十数年前の日本では「鬼畜米英」「愛国心」、そしてそれに反するものは「非国民」であった。今は「アメリカのペット」の人気が高く、なのにまたぞろ「愛国」などということが強調されてきている。眉にツバをつけねばならない。またゆめゆめ「勝ち組」になろうなんて・・・。
 

―――以上 『顛倒』06年5月号 No.269より―――

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