とつくに(1)

〜関係存在としての個の自覚

 摂政としての太子が当面された任務は、各氏族間の対立・抗争をのりこえて、統一国家を建設することにあった。憲法を制定し、冠位をさだめ、暦法を明確にし、国史を編纂する、そのすべてが統一国家建設のための努力であった。
 国土を念ずるということは、国民すべての仕合せを念ずることである。せまくいえば家、ひろくいえば国土、それはひとびとの生活のより依りどころであり、いわばひとびとの生活の器(うつわ)である。しかもその器である家や国土というものは単なる形骸(けいがい)ではない。
 人の家は、人を生み出す徳・働きをもった家なのである。家そのものにその徳・働きがある。もちろんそれはその家をつくり、住んでいる人の徳によることではあるが、その徳が家の事実になるまでに具体化しているということである。そのことは身近に考えてみても、そこに住んでいる人の心によって、その家自身におのずと陰気な家・陽気な家、落ち着いた家・落ち着きのない家という性格が生まれる事実として経験している。そしてその家の性格が、そこを訪れた人をなごやかで心楽しい気持ちにもすれば、あるいは逆に、寒々としてゆううつな心にもするのである。そのことから言えば、たとえ覚りをひらいたといっても、その人一人の事実に留まっていて家全体の事実にまでなっていないなら、その覚りはまだ完成したものとは言えないのであろう。
 国民の一人一人が本当に豊かで、なごやかに生活できるようになるまでに国を平和に!それが太子の摂政としての願いであった。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
<住職のコメント>
 
我が真宗大谷派のいのちである信仰運動を「同朋会運動」と呼び、そのテーマは「家の宗教から個の自覚の宗教へ」というものである。なるほど、この運動が提唱された昭和30年代は、まだ戦前の封建的な心情や家制度の名残りが色濃く在って、人を縛っていたから、このテーマは新鮮に、また具体的に人を解放しただろうと思う。
 しかし、それから4、50年を経て、現代の様相はどうだろう。今や、「家」は破壊されその結果、人間さえもが、人間である根拠を失ってしまっているような存り様である。
 いったい何が欠けているのだろう。私はそこにまさに「個の自覚」。「個」の内容が世間において詰められてこなかったのではないかと思う。「個」と言えば、「バラバラ」で「我がまま」で「自己チュ−」でと思われている。しかし、仏の説く「個」はそうではない。それは「関係存在」「世界を我(われ)とする私」なのである。つながりを生きている、唯一の存在である私に気付くこと。それは当然の如く、両親や祖父母、子や孫や友人や近所の人や職場の人たちと共に生きる、共なる願いを持って生きる「個」なのだ。

―――以上 『顛倒』06年3月号 No.267より―――

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