憲法(6)

〜三宝に帰依するとは真実の共同体創り」

 少しでも人よりよい目、楽な思いがしたくて争うことがもうほとんど本能的にまでなっている人間に、いったい私心を離れるということができるだろうか。聖徳太子はその厳しい求道の中から強い信念をもって「篤く三宝を敬え。三宝に帰依せずしてどうして人の枉(まが)れるを直すことができよう」と断言されるのである。
 たとえば、俳優で主役だからといって驕らず、端役だからといって腐ることなく、与えられた役に満足して精一杯自分を生かすことができる人は、芝居そのものを愛し、舞台そのものに生き甲斐(がい)を見出している人であろう。すなわち共に同じひとつの舞台に生き、舞台をつくっているものという自覚のみが、その俳優から私心をとりのぞかせるのである。
 そのように、同じくそこに生きている国土というものに目覚め、そこから生まれそこに帰るところの人類の歴史というものに目覚める時、その時はじめて、人は私心をはなれて、現に今此処(ここ)にこういうものとして生きている自分に満足して、精一杯生きてゆくことができるのである。『十七条憲法』の第七条に、太子が「人各々任あり」といわれる、その任とは、広く言えば、人類の歴史という舞台において自分に与えられている役目・責任のことなのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
   あつく三宝さんぽうを敬え
 三宝とは仏・法・僧なり
 其れ三宝に帰りまつらずは
 何をもってか枉まがれるを直たださん
 人おのおの任よさしあり

<住職のコメント>
 
「法」とは真理そのもの、道理。「仏」はその真理(実)を自覚した者。「僧」とは、仏の教えに順って「真実に生きよう」と願った人の集り。だから、「三宝に帰依する」とは「本当の共同体」創りのことである。しかし現実の共同体は、金とマニュアル、もしくは法律による罰則によって、かろうじて成り立っているような情けないあり様である。
 今こそパブリック、真の「公」が回復されねばならない。それはたぶん、ひと昔前の入会(いりあい)のようなものだろう。例えば、ここに村人全てのもの(入会)である裏山がある。人は毎日の炊事のために柴や薪を取りに入る。適度に取るだけだから取り尽くすことはない。それによって山が整備され、秋にはマツタケができる。それもそれぞれが後の人の事を考えて採り過ぎないから、皆に行き渡る。春には山菜だ。そんな在り方が真実の共同体の姿ではなかろうか。
 

―――以上 『顛倒』06年2月号 No.266より―――

前号へ    次号へ

目次に戻る


瑞興寺ホームページに戻る