憲法(5)

〜私を以って公を妨ぐ

 凡夫とは、もののありのままの姿を見ることができず、常に自分の立場から一面的にしか見ることができないものということである。そしてひとたびその一面的な見方を絶対的なものとして「私」がたてられると、その私の主義をもってすべてをおおい、あるいは私の欲望を満たすために彼と争い、征服しようとするようになる。それはまさしく「凡そ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり。憾(うら)みあれば必ず同ぜず、同ぜざれば則(すなわ)ち私を以って公を妨ぐ。憾み起れば則ち制に違い法を害う。故に初章に云く、上下和諧せよと。其れ亦是の情なるかな」と『十七条憲法』の第十五条にしめされているごとくである。
 もともと「和諧」の「諧」という字は、皆が言うと書く。「和諧」とは、すべての人間が自分の言うべきことを自分の言葉をもって言うことができ、しかもそれが全体として調和しているという姿である。経典に浄土の徳をたたえて、それは青い色が青に、黄色は黄に、赤色は赤に、白色は白に輝いている世界だと説かれている。つまり、和の世界は真に平等な世界でもあるが、その平等ということは皆が同じ色になってしまうことではなく、かえって、それぞれにその本来の色を輝かしている世界なのである。そのことで互いに他の色をおかさず、かえって他の色の輝きを際立たせ、全体として調和を保っている。上下和諧している世界とはそのような世界なのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
およそ人、私(わたくし)あれば必ず恨(うら)みあり。
(うら)みあれば必ず同(どう)ぜず、
同ぜざれば則(すなは)ち、
(し)を以って(こう)を妨
(さまた)ぐ。
<住職のコメント>
 
聖徳太子を読み出して、丸2年が経った。読めば読むほど、太子という方は人間関係を深く見通されているなあ、と思う。言い替えれば、それだけ人間関係に苦労された方なんだろうと思われる。今回の「私の見方を絶対のものとする」人間の在り様、「本当にそうだな」とうなづける。そこでだ!「自分の言うべきことを自分の言葉で、お互いが言い合い、しかも、全体が調和している姿」とあるが、現実を見ると、そんな事はほぼ絶望に近い。でもだからこそ『バラバラでいっしょ』と、どこでどう一致点を見出すのか、個人の損得を超えて、あきらめずに、関わり続けたいと思うのだ。いろんな事柄に。

―――以上 『顛倒』05年12月号 No.264より―――

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