憲法(4)

〜党を越える者が歴史を進める

 なぜ、現実は闘争の歴史でしかないのであろうか。太子がそこに見出されたものは、人間の党性であった。
 人間が現実の問題に対して責任をもち、それに具体的に関ってゆこうとする時、おのずとひとつの立場をとることとなる。現実の問題に対してどういう立場もとらないということは、現実に対してまったく責任を持たないということと同じである。そしてその時、同じ立場に立つ者同士が相寄り力を合わせるようになるのも、これまたことの自然であろう。そのことが悪いのではない。つまり党を持つことそのことが悪いのではない。ただお互いに、それが党であるに過ぎないこと、すなわち現実へのひとつの関り方に過ぎないことを忘れ、それを絶対的な立場として固執し、他の立場を認めることができなくなるところに問題があるのである。
 太子は「人皆党(たむら)あり、また達(さと)れる者少なし」といわれ、『十七条憲法』の第十条にはさらに根元的に「人皆心あり、心各々執(と)るところあり。彼是なる時は則ち我非なり。我是なる時は則ち彼非なり。我かならずしも聖にあらず。彼かならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ」と告げておられる。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
 
<住職のコメント>
 
人の世は本当に難しいなあと、最近つくづく感じている。何か物事がある。必ず違う見解、意見が衝突する。白か黒かはっきりしていれば話は楽なのだが、事実は灰色灰色。その濃さ、薄さの争いがほとんどである。
 何とかならないものかなあ。灰色は灰色なんだから。どこかに共通点があるように思うんだけれど、そんな事を言っていると中途半端に写ってしまうのか。
 白土三平氏の「カムイ伝」という物語の中で、百姓一揆の時に、何とか対立する両勢力の仲を取りもとうとした主人公がズタズタにされる事をある友人が言っていた。でもそんな「党」を越えようとする者こそが、歴史を進めるのではないか。

―――以上 『顛倒』05年11月号 No.263より―――

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