憲法(3)

〜弱肉強食から共なる生へ

 十七条憲法をもって表わされた太子の願いは、第一条に示された「和を以って貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗」とする生活の建設ということに尽きる。
 いつの世、いかなる人であれ、人間として平和を願わぬものはない。にも関らず、この地上にほんとうに平和な国といえるものはまだ一度も実現したことはなかった。たとえ直接戦火にさらされるというようなことはなくても、たえず、その不安におびえ、ひとびとが心から安らぎ、たがいに豊かな心をもって暮せたということはない。そのため、なかには、要するに人間社会は弱肉強食の世界なのだ、競争し合うということも人間の自然なありかたとしてやむを得ないのだと、わりきったように言う人すらもいる程である。
 けれども、そう言える人は生存競争において少なくとも今は勝っている人、つまり強食の側に立っている人か、あるいはそうなれると無邪気に自分を信じていられる人の場合だけである。ひとたび自分自身が弱肉として食べられる立場にたたされるや否や、世を呪い人を怨み、助けてくれと逃げまわることになる。しかも、たとえ今は強食の側にある人でも弱肉に転落する危険はつねにあるのだから、不安はやはり隠すことができない。
 けっきょく世のなかが闘争の世界であるかぎり、強者、弱者のどちら側にあっても平和を楽しむことはできない。やはり自他ともに満足し、安らかに生きてゆける世界でなければ、我が身一人の仕合せもあり得ないという事実にうなずかざるを得ないのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
 
<住職のコメント>
 アメリカはハリケーンで大変だったけれど、日本も小泉旋風でエライことになってしまった。まあ郵便はいいとしても、中国や北朝鮮との関係、そしてイラクは、日本国憲法はどうなってしまうんだろうとユーウツなことである。私の地元でも、長年の現職が、ポット出の女性にたった2週間で負けてしまい、まことに選挙は難しいものだと、自分自身のことも含めて、身につまされている。
 でも皆本当はどうなんだろう。こんな「勝ち組、負け組」なんてあり方でいいんだろうか。弱者が強者にあこがれて、いっそう強者を勝たせているような、皮肉な悲しい状況まで見られる。もう一度立ち止まって自分を世界を見つめ直してみたい。物事は0か100か、白か黒か、といったものではないはずだ。その微妙な辺りに「共なる生」があるのではないか。

―――以上 『顛倒』05年10月号 No.262より―――

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