憲法(2)

〜時代を越えて息づく憲法の伝統

 どの国の憲法であれ、おおよそ憲法というものは、その国の心を明らかにしたものということができよう。憲法は国民の生活のありかたを定め、その国それ自身のありかたを明確にする。憲法を見れば、その国がどのような国か、その根本の立場がどこにおかれているかが一目瞭然(りょうぜん)となる。
 日本の歴史において多くの訓戒・憲法が発布されているなかで、この十七条憲法のみがつねに日本民族のなかに語りつがれ受けつがれてきているという事実である。そのことは、日本民族がいつの時代においてもその時代の問題をとおして、常にこの憲法の言葉に触れてきたということを物語っている。
 十七条憲法には、人間として求めるべき国家の姿が最も深い姿で願われている。その太子の願いは、悲しいことに現実には実現しなかったけれども、しかもその願いの深さが、太子亡きのちも、時代を越え思想の移りゆきをも越えて、つねにひとびとの心によみがえりひとびとを動かしてきたのである。(東本願寺刊「太子讀本」より)
 
 

<住職のコメント>
 最近、日本国憲法の「改正」が、具体化してきている。論議することはいいことだが、その前の学習が不充分なまま、感情的にムードだけに流されている面も強いと思う。
 例えば「ドイツは何度も憲法を変えてきた」。それは事実だが同時に「憲法の基本は変えてはならない」という規定もある。それにならうなら、日本は「国民主権、平和主義、基本的人権」を変えてはならない、ということになる。
 例えば、「アメリカに押しつけられた」。G.H.Q.が原案を創ったのは事実だが、時の総理大臣吉田茂は、「世界に先駆けて戦争を放棄した憲法を持つことは日本国民の誇りである」と演説している。
 このような事実、そしてさらに「十七条憲法」など日本の長い伝統にも学ぶべきだろう。「以和為貴」の「和」は「やわらぎ」と同時に「平和の和」、また時代が下れば「刀狩り」もあった。「銃刀の不所持」「非核三原則」「武器の不輸出」など麗しき日本の伝統である。
 

―――以上 『顛倒』05年8月号 No.260より―――

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