求道(3)

〜慚愧(ざんき)あるが故に父母兄弟あり〜

 そのときどきの切迫した問題を解決するために実践したことが、そのために次のあたらしい問題を引き起こしてきて、けっきょく問題は変わったけれども悩みがあること自体にはすこしも変わっていないということである。
 なぜそうなるのか、そして、どうすればそれは克服できるのか。そこから思惟の歩みがはじまる。あれこれのことを考え、実践している、そのこと自体を問いかえしてゆくのである。つまり思惟を深めるということは、ただ単に色々の知識を身につけ、あれこれのことを理解するということではない。色々のことを知っている人間もたくさんいる。しかし、ほんとうに人間として自立し、自分自身のほんとうの姿、世のなかの真実の相に目覚めている人は、なかなか見つけだせるものではない。そして実は、思惟とは人間の事実をわが身のうえに明らかに認めてゆく努力なのである。
 事実を事実として認めることを人間から隔てているものは、心のにごりである。心のにごりが、人をして、自分の立場、自分の都合からしかものごとを見させなくしているのである。だから涅槃経(ねはんぎょう)にも「慚愧(ざんき)あるが故に父母兄弟あり」と説かれるのである。もちろん、人が慚愧しようとしまいと、父母兄弟は父母兄弟としてはじめから存在している。けれどもそれなら、われわれはほんとうに父母兄弟に会い、父母兄弟を見ているだろうか。自分の都合次第で、ありがたく思ったり憎く思ったりしているだけではないか。自分の思いを絶対的なものとしてたてている固執が破られ、捨てられたとき、われわれは他人(ひと)をそのありのままに見ることができるのである。(東本願寺発行「太子讀本」より)
 

<住職のコメント>
 真宗大谷派で、この春、ある方が、その職を辞めさせられた事の反響が広がっている。最高責任者は「批判は甘んじて受ける」と構えておられるが、私などにもいろんな意見質問が浴びせられる。知っている事もあるし、知らない事もある。詳しく調べる事を約束したりもしている。私のできる説明責任は、力を尽して果たしていくが、今回のこの出来事だけを観て白黒を言われている方が多いように感じる。物事は、みな関連して起こるのだし、今回の事も、もっと大きく広く状況を見通した上で責任を持って歩みを選ぶことが必要だと、私は考えている。

―――以上 『顛倒』05年5月号 No.257より―――

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