求道(4)

〜慈悲の根本は思惟=広く深く学ぶ

 思惟は心のとらわれを捨てることなのである。思惟が深まる、つまりその心のとらわれがなくなれば人は、高く狭い丸木橋をも大地のごとくに力強く、自在に歩めるように、どのような状況になっても変わることなく、どのような問題にもまどうことなく、ほんとうに自在に行為してゆけるのである。そのような力を生みだすものこそ、真の思惟なのである。人の心は思惟に磨きぬかれるときはじめて、広やかさをもち、ひとびとを平等に愛し慈(いつく)しむということもよくおこなうことができるのである。聖徳太子の生涯をつらぬいている深い人間愛、ひとびとがわが父、わが兄と慕うほどにまでしみとおったその愛は、実は太子のきびしい思惟の歩みから流れ出たものなのである。


「正義と微笑」より
                       太宰 治
 お互いにこれからうんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の益にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのはカルチベートされるということなんだ。カルチベートというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ。(東本願寺発行「太子讀本」より)
 

<住職のコメント>
 「慈悲」の根本は「思惟」。そして、それは「勉強」から生まれる。「勉強」といっても無理にやらされる詰め込みではない、それは、「カルチベート」すなわち「耕す」ということだと。「なるほど」と思う。慈悲=仏の愛は、本来私たちの「いのち」そのものが持っている。でも耕されていないのだと。「広く深く物事を学び知る」ことによって、それが開発されてくるのだと。「ウン」深くうなづける真理である。

―――以上 『顛倒』05年6月号 No.258より―――

前号へ    次号へ

目次に戻る


瑞興寺ホームページに戻る