求道(2)

〜矛盾を抱えながらも行動する〜

 聖徳太子はそういう身の事実、矛盾をかかえて、経典のうえに仏陀(ぶつだ)の教えを聞き、ふかく思惟(しゆい)してゆかれた。三経(勝鬘経、法華経、維摩経)の義疏は、太子のその歩みの跡である。聖徳太子の荷負(にな)っていられた問題のふかさがたんなる理解にとどまらせず、太子独自の深い見識を生みだしたのである。
 「どれだけ考えていても実践しなければ意味がない」といわれる。「くよくよ考えずにまず行動してみろ」ともいう。たしかに、ただいたずらにくよくよ考え、あれこれと迷うていても、なにひとつ解決はしない。しかし実は、そのようなものは、態度がどちらとも決まらず、どうすればよいのか心に惑うているだけのことで、思惟とよぶべきものではない。
 現実の事柄はつねに切実な、猶予を許さない問題として身にせまってくる。どっちつかずにいることは許されない。決断し、行為しなければならない。それが現実というものであろう。
 しかし、現実は他の一面をもわれわれに教えている。ある土地の貧困を救うべく誘致した工場の廃液が、果物を枯らし、魚貝類を死滅せしめたという例。人の個性をしばるようないっさいの社会制度を否定し、各人が思いどおりに生きてゆけるようにと努力した結果、人間けっきょくは自分しか信じられないという孤独に悩まなければならなくなったということ。
 それらはまるで、下手(へた)な素人(しろうと)大工が机の脚の高低(たかひく)をなおそうとして、右が高い、今度は左が高くなったと、切りきざんでばかりいて、いつまでたっても水平にできないでいる姿にすら似ている。
 そのときどきの切迫した問題を解決するために実践したことが、そのためにつぎのあたらしい問題をひきおこしてきて、けっきょく問題は変わったけれども悩みがあること自体にはすこしも変わっていないということである。(東本願寺発行「太子讀本」より) 
 

<住職のコメント>
 「問題は変わっていくが、人間に悩みのあることは変わらない」真理の言葉であろう。しかし続けて、「だから行動しても仕方がない」と言うことは間違いである。冒頭の言葉は、人間が人間として、その限界を知りながら、なお力を尽くして深く考え行動することを促しているのだ。
 人間の一番愚かな行い、戦争について観てみよう。なるほど有史以来、人間は戦争を続け、今もイランやチェチェンなどでし続けている。でもその渦中に居るアメリカという好戦的な国でさえ、昔は、一般市民を大量に殺して恥じなかったが、今ではそうでもない。
 少なくとも、自国の兵隊を大量に殺すような戦争はできなくなっているのである。人間は愚かだから何度も同じ過ちを犯す。でも行きつ戻りつしながら、それでもネジのように少しずつは方向を持って動きつづけているのではないか。

―――以上 『顛倒』05年4月号 No.256より―――

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