求道(1)

〜共にこれ凡夫のみ〜

 仏教がつたえられてから約半世紀、推古天皇二年(五九四)、「三宝興隆(さんぽうこうりゅう)の詔(みことのり)」が天皇の名において発せられた。聖徳太子(しょうとくたいし)はおりから来朝した高麗僧慧慈(えじ)という師をえて深く仏法を学び、世の中の平和の原理をたずねて、しずかに人間自身の根元を内観するのであった。
 摂政として太子が、国の平和を願い、ひとびとの幸(しあわ)せをおもって努力されるにつれて、しだいに、人間の愚かさ、みにくさというものがどうしようもないものとしてみえてきたにちがいない。じっさい、人をふかく愛そうとするものほど、またふかく人に傷つけられもするものなのである。
 おそらくは太子とて、ひとびとの頑(かた)くなな心に、ときにははげしい憤(いか)りに身をふるわせられ、あるいはまたひとびとを無視したくなる心をおさえられないこともあったであろう。しかしすでに、そのひとびとをすてさることを自分にゆるさないものが、つねに太子の心のなかにはうごいていたのである。「忿(いかり)を絶ち瞋(いかり)をすて、人の違(たが)えるを怒らざれ。人皆心あり、心各々執(と)るところあり。彼是なるときは則ち彼非なり。我かならずしも聖にあらず。彼かならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぶ)のみ」という憲法第十条の言葉の背景には、そうした太子内心のきびしい戦いがあったのである。(東本願寺発行「太子讀本」より) 
 



<住職のコメント>
 「共にこれ凡夫(ぼんぶ)のみ」 本当に立場のはっきりした言葉である。「凡夫だから」と開き直るのでもなく、あきらめてしまっているのでもない。
 「あきらめる」の本来の意味、「明らかに見る」を基本姿勢として、物事の本質を観(み)て、それでも意見の違う人が居(い)ることもよく分かり、その上で、「どこが違うのか、どこなら一致できるのか」力を尽くして、話し合っていく「覚悟(かくご)」こそがこの言葉で表現されている。  最近世間では、「憲法改正」の動きが大きくなってきている。私は「憲法の平和主義を守るべきだ」という立場で「9条改悪反対」に名を連らねているが、「反対」「賛成」の言い合いは、つまらないと思う。そうではなく、どのような立場の人であろうとも、認めざるを得ない地点、例えば、「私はいのちを生きるものだ」「貴方もいのちを生きるものだ」「見知らぬ地球の反対側の人もまたいのちを生きている」。そこまで戻った所から、議論を始めれば、答は自(おの)ずと然(しか)らしむのではなかろうか。 

―――以上 『顛倒』05年3月号 No.255より―――

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