まつりごと<暦法の制定と国史の編纂>(3)

〜浄土・共に生きる「国」〜

 儒教には、政治形態をあらわす言葉として、王道と覇道(はどう)というのがある。覇道とは、武力や権謀(けんぼう)をもちいて国を治めることであって、覇者がその野心を実現するために国民を上から一方的に弾圧してゆくすがたをあらわす。それにたいして王道とは、王者がその仁徳をもって国を治めるすがたであって、王道楽土という言葉があるように、どこまでも安楽な国土を建設することこそを願いとするものである。いいかえれば、すべてのひとびとの生活を豊かにし、その国土を安楽なものにしたいという願いに生きるものを、王者というのである。仏教において、世に法輪を転じて魔を降伏せしめ、ひとびとの生活をいつくしむことをもって願いとするものを転輪王(てんりんおう)と、王者の名をもってよぶのも、それと軌を一にするものなのであろう。そしてその王者による政治をこそ、太子は願いとされていた。
 国を成り立たせている三本の柱は、土地と国民と統治者である。そのことからいえば、太子の事業のなかでも、寺塔の建立(こんりゅう)は主として土地にかかわり、暦は国民の生活とむすびつき、国史編纂の事業はなによりもまず統治者について記録することであったといえよう。そこには一貫して太子の、民族の生活環境を正確にみきわめ、そこに人間生活をしていよいよ豊かな人間生活たらしめようとされた願いがあるのである。(東本願寺発行「太子讀本」より) 
 

<住職のコメント>
 最近は『愛国心教育』がやかましく叫ばれている。しかし「国とは何ですか」と問うと、ハッキリ答えられる人は少ないのではないか。
 「日本国」と言うけれど、それは何か。国土か。人間か。文化か。言葉か。はたまた政治体制か。「国破れて山河あり」。60年前、徹底的な敗戦を経験した、我が日本であっても、そこには、山河が在り、人々が居た。むしろ国土(山河)の破壊ならここ2、30年のほうがひどいのではないか。
 「愛国心」は教え込むものではない。日本の国土、自然の美しさ、日本文化の繊細さを、日本の造形の美事さを知れば、当然、人はそれらを愛するようになる。そしてその愛は同時に他国のそれらの美事さにも感動する。
 仏に説く「国」とは、「仏国土」すなわち「浄土」と呼ばれる「国」である。その国は「阿弥陀仏の四十八願」という憲法によって律されており、あらゆるいのちが水平に出会い、人間が国籍・人種・文化・言語・宗教あらゆる違いをそのままに尊重し合い、共に生きる「国」である。
 

―――以上 『顛倒』05年2月号 No.254より―――

前号へ    次号へ

目次に戻る


瑞興寺ホームページに戻る