まつりごと<暦法の制定と国史の編纂>(1)

〜旧暦の持つ深みと世界基準としての西暦〜

 推古天皇十年(六〇二)、百済(くだら)の僧、勧勒(かんろく)が暦や天文地理の書をつたえた。太子は書生三、四人をえらんでこれを学ばしめ、翌々年の正月より正式の暦日をもちいることになった。百済から勧勒が来朝したとき、聖徳太子が学生数名に命じて暦法や天文学を学ばしめられたのが、わが国に暦学・天文学が本格的に受容された最初なのである。太子が暦法の吸収に積極的につとめられたのは、その国史の年月を正確にしるし、外国との公式文書の体裁をととのえるためだけではなかった。もっと具体的な願い、国民の生活そのものを明確な基盤のうえにきずかしめたいという願いが、その根底にあったはずである。「民を使うに時をもってするは、古の良き典(のり)なり。故に冬の月に間(いとま)があれば、もって民を使うべし。春より秋にいたるまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつくら)ずんばなにをか食はむ。桑(くわとら)ずんばなにをか服(ふく)む」という憲法第十六条の太子の訓戒は、暦法を正確にすることによって農桑の節を正確にみきわめ、その仕事が安定して豊かなものになるようにという願いと、表裏をなしているものといえる。(東本願寺発行「太子讀本」より)

<住職のコメント>
 「暦というものは、根本的なものだなあ」と、よく思う。現代の日本人は、太陽暦を使っていて、暑くなれば夏、寒くなれば冬と、誠に分かり易い。では、昔の旧暦はどうだろう。
 新暦の2月4日という寒さの極みに、春が始まり、8月上旬という暑さの盛りに秋が始まる。『盛り』の内深くに『次の何か』が始まりつつある。いかにも日本的な『深み』ではないか。明治以降、新暦を採用した日本は、その『深み』を見失い、薄っぺらになっているのではなかろうか。
 一方、我が真宗大谷派は公文書に『元号』ではなく、『西暦』を使っている。それに対して、「伝統教団が何故?」とか「仏暦にしては」といった声を聞くことがあるが、それらは申しわけないが、浅薄なナショナリスティクな考え方と言わねばならない。
 もっと大きく物事を見てみよう。なるほど、日本は、元号を用いてきたが、それは元々、中国文化である。また、明治までは、天変地異があったり、大事件があると、新たな出直しとして元号が変えられた。天皇の即位から死亡までを、ひとつの元号で表わすなんてことは、明治の造作にすぎないのである。仏暦はどうだろう。個人が趣味的に用いるにはよいと思うが、年代のはっきりしないものを基準に用いるのはいかがなものかと思う。世界の多くの人々と通じる基準を用いる事が世界の中の自分の位置を明確にする事につながるのである。季節との違いが、そこにはある。
 

―――以上 『顛倒』04年11月号 No.251より―――

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