○――――――――――――――――――――○

和田しげしさんのことば(4)

永代経法要(1998.4.29)法話より

 

人間はそれぞれ価値基準を持ってますね。

 そしてあらゆる出来事について批判してみたり、評価してみたりします。

 みな自分の基準があるんです。

 ところが、その基準が問題になったことがない。

 個人どうしでもそうですし、国どうしでもそうです。

 そして、それがあらゆるトラブルの根っ子になっている。

 

 

唯(ただ)
仏恩の
深きことを
念じて、

人倫(じんりん)

嘲り(あざけり)

恥じず。

 

[しげし]

最近の大きな問題は、ダイオキシンなどの有害物や、環境ホルモンのことですね。

 プラスチックとか、それらはみな、人間が
より幸福に、より快適に、
より便利に、より豊かになりたい、
という願いを実現しようとして生み出してきたものです。

 幸福になるために作ってきて、手に入れた幸福を根こそぎ手放さねばならなくなって来ている。

これまで身に着けてきた常識が全く通用しなくなってきているんですね。

 善だと思ってきたことが崩壊を招き寄せてしまった。

そんな状況を見ますと、私どもには、親鸞さまの言葉が響いてきますね。

 

善悪のふたつ 総じてもて存知せざるなり

『歎異抄』より

○――――――――――――――――――――○

一切の基準が間に合わない。そういうことです。

 

現代という時代は行く先もわからず、目的もなく、ただ漂流している。依るべき所がない。

 政治、経済、社会、教育、あらゆる面で、そうなっています。

 人類の歴史始まって以来の混迷の時代です。

真宗門徒というのは、親鸞さまという現代の常識では全く間に合わない方の言葉を聞いてきた者たちなんです。

 不思議なもんですね。『善人が救われるなら、悪人はもっと確実に救われる』なんて言ったら、学校の道徳が成り立ちません。

『念仏しても、浄土へまいれるかどうか知りません』などという恐ろしい言葉は、お寺でもチョット言えませんよ。

 そんな言葉が、現代を言い当てておられる。

 大変な時代ですね。

「われわれが救われないのは状況のせいではない。私の願いがハッキリしていないからだ。」
と親鸞さまは、おっしゃいます。

 例えば、子供に対して「何のために生まれて来たのか」を確信を持って私達は語れますか。

そういう問題なんです。

 

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

『歎異抄』より

○――――――――――――――――――――○

念仏は、
真に、浄土に生まるる種にてやはんべるらん、
また、地獄に落つべき業にてやはんべるらん、
総じてもて存知せざるなり。

『歎異抄』より

アーカイブ目次へ / 和田しげしのことば目次 / 和田しげしのことば(5)