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和田稠さんのことば (2)

永代経法要(1999.4.29)法話より

○共に生きるとは、

今おるもんだけではない、
亡くなった者もともに。
これから生まれてくる者も
共に。

そんなつながりがある。

そこに「くに」がある。


ハワイのホスピスで語る和田稠

亡き人のはたらき(歴史的つながり)

 

 

○みなさん よく『亡くなった人』と言いますが、
この永代経法要に来られているということは、
『消えて無くなった』わけではないですね。

現に私をこの場に押し出して下さっている。

生きとるものは忘れておってもね。

亡くなった人は常に思いづめで、何とかして私達をこの場に押し出そうと働いておられる。

無限のつながり(空間的ひろがり)

 

 

○今日まで長い永い『おいのち』の歴史を生きてきて、ここにいる。

自分一人でいるのではない。

考えてみると、食べるものも、着るものも、
住まいも、何もかも、世界中から集まって私達の生活が成り立っている。

そんな無限のつながりの中に在る。

ところが、それを忘れてしまっている。

ドジョッコ、フナッコ(自然とのふれあいの喪失)

 

 

○今の子供たちは、人間以外のお友達がほとんどいなくなった。

川に行ってもフナもドジョウもメダカもいない。

ポリ袋と空き缶ばかり、生きとるもん、がいない。

たかだか50年ほどで、それほど日本の国が荒れ果ててしまったんです。

盛んになった、便利になった。と言っているが、一番大事な子供達のお友達が死に絶えてしまったんです。

そんな『貧しい』日本に誰がした。

みんなして、こんなあわれな国にしてしまった。

そんな中で、子供達に「人間として生まれてきて良かったなあ」と言ってみても、子供達も素直には聞けないでしょう。

豊かさの落し穴

 

 

○世界中がどこへ向かって行くのか、全くわからなくなっている現在。
このままいったらどうなるのか。

日本の国ほど食べ物を捨てている国はないそうですね。

いまユーゴで何十万人という難民がおられるが、
そんな状況にある多くの人達のいのちを支えれるだけの食べ物を平気で捨てている。

そんなことは、みんな知っています。
しかし、知っておっても、それが自分の問題になかなかならない。

願いを聞く(真宗の眼目)

 

 

○浄土真宗のお寺は親鸞さまの教えに成り立っている。

そして、ご門徒とはその教えを聞くことによって

「私がご縁を持って生まれてきたのは、この教えを聞くためだったんだ」と気付かされる。

「ああ、
こんなたいした人間の生き方があったんだ」
という大きな感動と喜びを生きていってほしい。

という願いがある。

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