年頭の挨拶
2017年 年頭の挨拶
これは、『末燈鈔』と名付けて親鸞の手紙を纏めた書物の中にある、親鸞86歳の言葉です。 そこには、「自然(じねん)」というは、「自」は「おのずから」という。 行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。 「然」というは「しからしむ」ということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。 「法爾」というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。 とあります。
意味は、「もとより、おのずから、しからしむる」で、親鸞最晩年の、 浄土真宗の究極的な境地と言われます。 「自己のはからいを打捨てて真実の働きに任せて、自分自身を生ききること」という「教え」です。 そうです。「全ての物事は、自ずから真如の知恵の顕れであり、真理にかなっている」のです。 例えば、私たち一人ひとりを観てみましょう。 知る知らないに関わらず、私たちは「いのちの法則」に従っています。「いのちの法則」とは何か。 「ご飯を食べなかったら、お腹が減る」「十日食べなかったら死んでしまう」という事です。 まさに「自ずから然らしめ」ています。
私も、一昨年は、お寺の母と今生のお別れをし、昨年十二月一日には、実家の母が、数え九三歳で 天寿を全うしました。 悲しい事ではありますが、まさに「自然法爾」です。
思い返せば、波瀾万丈の人生を送った母で、いろいろ世間を騒がせた事もありました。 がしかし、それが、私が僧侶の道を選ぶ大きな勝縁となりました。 実家の母がいわばマイナスの縁となり、お寺の母がいわばプラスの縁を開き、 まさに両重の因縁が、私を仏教者へと導いてくれたのです。
晩年は母も得度を受け(法名 釋尼鈴翠)、姉の家族と同居し、相変わらず周りを振り回してはおりましたが、 孫やひ孫に囲まれて念佛申す、穏やかな老後を過ごしておりました。
直前まで普段通りで、一か月足らずの入院でお浄土に還りました。ある意味達人だったとも思います。 両方の母の願いを引き継ぎ、真宗念佛者としてまた新たに始まる春。 まさに「大切にしたい(愛でたい)」と思います。 昨年に続き、趣の違う年頭の挨拶と致します。今年もどうぞよろしくお願い致します。