年頭の挨拶

2015年 年頭の挨拶

 多 岐 亡 羊(たきぼうよう)

 今年は「未(ひつじ)」年。パソコンで「羊」の入る四字熟語を探してみた。

今は何でも、パソコンで調べられる。横に置いてある重たい百科事典が、侘しい。
新品同様だから捨てることもできずに鎮座ましましている。
世の中の時代遅れのいろんなもの、時代遅れの自分をも象徴するようで、もの悲しい。

 その中で、この言葉に出会った。
『多くの選択肢があると、迷ってしまう羊」転じて、 「いくつもの方針があるため、どれを選ぶべきか迷ってしまう」ことの譬えである。 「羊」とは誰か。それは「私たち」。迷う存在であるということだ。
キリスト教では「迷える子羊」と言う。「牧師」とは、まさに「羊飼い」のこと。

 漢字では、「未」の字を「ひつじ・羊」に譬えるが、「未」とは、木が茂って暗いさまを意味する。 それが物事に暗い「羊」に譬えられたとも言われる。佛教でも、人間のありさまを「無明」 (むみょう)と説く。すなわち、真理に暗い存在であると説く。そう、人間は迷うものだ。

 昨年末の総選挙で、選択肢に迷って、投票に行かなかったり、白票を投じた方がとても多く、組織票 に強いところが勝ったが、まさに人間の無明である。また逆に「この道しかない」なんて言われると、 「そうかな」と、ついふらふらと、その道に行ってしまう。まさに牧羊犬に追われる羊のよう。

 さあそこで「ナンマンダ佛」だ。「無明」とは「人間は真理に暗いのだから仕方が無い」という事で はない。無明と知らされるからこそ、知っていこうという意欲を私たちに生じさせる。できるだけ物事 を観よう、知ろうと、私たちを転ずる。それが、本来の人間の生きざまを教える「八正道」の「正見」。 過去を知り未来を見通して、初めて「今」が、世界を宇宙を観て、初めて「ここ」が、周りの人たち を見て、初めて「私」が観える。そんな「正見」を戴いて歩みだそうではないか。
ひつじ
そうして初めて「羊」のように、どんな人とも共に平和に暮らす生きざまが選び取れるのではないか。

二〇一五年 元旦  瑞興寺住職 清 史彦(法名 秀顕)

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