和国の教主 聖徳王 (1)

〜日本民族の心のともしび「聖徳太子」〜

 インド、中国大陸と東をさしてうるおしてきた仏教文明は、ついに東アジアのはての島国に、そのゆたかな恵みをもたらしてきた。ときに、大和の国に橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)(のちの用明天皇)を父、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として一人の太子が誕生した(敏達(びだつ)天皇三年 ・五七四)。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とよばれる。
 それは、欽明天皇七年(五三八)に百済の聖明王(せいめいおう)が使者をして仏像 ・経典をもたらした仏教公伝から三十六年のちのことであった。
 太子は時代のあたらしい光である仏教や、めずらしい異国の文化にふれ、動揺している環境のなかにもまれながら、育っていった。ここに日本民族を母胎としたひとりの世界的人間像が形成された。のちに和国の教主といわれる聖徳太子である。
 聖徳太子の名は、日本民族の心の灯であった。日本人がその歴史の歩みのなかで、混乱におちいり進退にまようたびに、その名をおもいおこし、その人の言葉をみちびきとして、あたらしい歩みをふみだすのがつねであった。いつの時代にあってもたちかえることのできる場所として、太子の名を、限りない安らぎと親しみをもって呼んできたのである。なかでも、太子への祈念をとおして師法然上人と出会い、真実の道に帰入することのできた親鸞聖人は、太子を和国の教主と、その徳をふかくたたえられた。和国の教主―それは、太子がこの日本にあらわれたればこそ後の世のわれわれも今、稀に仏法に会うことができたのだ。このよろこびもひとえに聖徳太子の恩徳である。(東本願寺発行「太子讀本」より)

 皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)  

 愚禿善信作
(ぐとくぜんしんのさく)
   

   
   和国の教主聖徳皇/広大恩徳謝しがたし
   
   一心に帰命したてまつり/奉讃不退ならしめよ

   

   上宮皇子方便し/和国の有情をあわれみて
   
   如来の悲願を弘宣せり/慶喜奉讃せしむべし

   

   救世観音大菩薩/聖徳皇と示現して
   
   多多のごとくすてずして/阿摩のごとくにそいたまう
                       
                       (「真宗聖典」より)


   (愚禿善信とは親鸞聖人の別名)
<住職のコメント>
 ひと昔前まで、「聖徳太子」と言えば、「お札」の事を意味していた。千円、五千円、一万円が聖徳太子だったと思う。それがいつの頃からか、全てが明治の人物になり、その頃から、お札の値打ちも、人の心も薄っぺらになってしまった気がする。いくら緊急避難とはいえ、日本の伝統を徹底して破壊した明治のそれも福沢諭吉のような人を、生活に欠くことのできないお金の顔に用いるなんて、それこそ魂を西洋に売り渡したようなものではないか、そして今も米国の手下みたいに・・・・・・。

―――以上 『顛倒』03年11月号 No.239より―――


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