王舎城の悲劇(14)
観無量寿経を巡って
講師 中川皓三郎先生

                      □96年6,7月の講話より

「共に」あるいのちに還る

親鸞聖人は、「歎異抄」の第2章で

『往生極楽の道』ということを問題になさっていますが、
それは単なる一宗派レベルのことではありません。

「どのようにすれば極楽と呼ばれる世界に往くことができるのか。」
という、この問いは、

それこそ人が人である限り、

キリスト教であろうが、
日蓮宗であろうが、
いわゆる無宗教あろうが、
また、どのような民族であろうが、

そのような様々な違いを越えて、
人が人である限り、あきらかにしなければならない問題として、

ここにあるわけです。

今、生きている私達の生のただ中に、
『極楽』という世界が開かれるのかどうか。

という問いが全ての人に共通してある問題であり、

「この問題があきらかにならなかったならば、人間が人間であることを失ってしまうのだ。」

という響きを持ってそれは語られています。

 

 

我、今、
極楽世界の
阿彌陀佛の所に
生まれんと
樂(ねが)う

唯、願わくば
世尊
我に思惟を教え
我に正受を教え
たまえ

 

我今樂生

極楽世界

阿彌陀佛所

唯願世尊

教我思惟

教我正受

(観無量壽経)

以佛力故

当得見彼

清浄国土

如執明鏡

自見面像

見彼国土

極妙楽事

心歓喜故

応時即得

無生法忍

(観無量壽経)

 

 

 

 

 

 

元大谷専修学院院長の信国淳先生は、次のようにおっしゃいました。

「一切の人間は元々一体なんでしょうね。

それが個々それぞれの形をとって分裂し、分裂したまま統一されている。

だから、私達は、
その本来的な統一に還らなければ、
人間として生まれてきた生命の意義を尽くすことができないのです。」

と。

この一人の私の中に一切の生きとし生けるものが在る

ということです。だからこそ、

あらゆるいのちを生きるものと同一の地平が開かれなければ、
他でもない、この私のいのちが本当には満足しないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


霊鷲山でのお釈迦さまの説法

 

 

 

 

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいをもすべし」
という親鸞聖人のことばがあるが、

縁(条件)によっては、
我々がどういう姿をあらわすか、
我々自身にも分からない。

それほど深い闇をかかえて生きているのが我々なのです。

今は仲が良いということで、
そこにあたかも『関係』が開けているかのように思うかもしれない。

けれども、その関係はもしかしたら、
ある条件の元では、いっぺんに壊れてしまうかもしれないのです。

『煩悩具足の凡夫』ということは
『縁』次第によって、
どれほどすごいエゴをむき出しにするかもしれないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは時によっては、

自分の隣におる者を無き者にしていくような形であらわれたり、
自分自身を無き者にしていったりするのです。

それほどすごい姿をもって、我々は存在しているということなんです。

そうして、そういう者である限り、
我々は『共に』という世界をもてないのです。

 

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