王舎城の悲劇(12)
観無量寿経を巡って
講師 中川皓三郎先生

□96年3月の講話より

現代の不安の根源(分別心)

近代以降、人間は、
物事を対象的に観察し、分析して、分解したものを再構築して、
人間の役に立てていこうとする営みをずっと続けてきている。

そういった物事を観(み)、考える人間の理性をどこまでも確かなものとし、絶対化している。

 

 

 

 

 

 

浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養をえらばしめたまえり。

これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、
世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。

                   (教行信証・総序)

 

そんな中で何故、私達は親鸞の教えを聞こうとしているんでしょう。

 たまたま真宗門徒の家に生まれたとか、真宗の坊さんと知り合ったとか、『縁』、事情はいろいろあるでしょうが、自分の中に何か『因』、理由があるはずです。

私の場合は、それは『不安』といえます。生きることが何か不確かに感じられた。

 いつも何かにおびえているような気がしていた。
そんなとき人間は、何か力になる物、お金とか名声とかを手に入れて、自分に自信を持って、その不安を解消しようとします。

私もそう思っていた。

でも最近ようやく、そうではないんだなぁと気付いてきたのです。

それは自信があるとか、ないとか。自分が他人より優れたものを持っていないとか。力になるものを持っていないとか。
という、いわば条件によって不安を感じていたということではなく、

私達の存在すべて、在りようそのものが不安を引き起こしているんだ。ということなんです。

 

『論語』に云わく、

季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、
「事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。

                      (教行信証・化身土)

 

それは、私達が『私(わたし)』と呼んでいるものは、
いつも『私』でないものを区別し、『私』を中心にし、

『私』に都合の良いものと、悪いものに分別し、
 都合の良いことは受け入れるけれども、都合の悪いことはどこまでも認めない。

そんな『私』の在りようが、そのまま『不安』なんです。

 

 

 

 

 

 

 

煩悩具足の凡夫、
火宅無常の世界は、

よろずのこと、
みなもって、
そらごとたわごと、
まことあることなきに、

ただ念仏のみぞ
まことにておわします

(歎異抄)

 

そこに『教え』があることの意味がある。

現代の私達は、自らの努力、心がけによって何とかしようと思うのですが、それは不可能です。

それが、煩悩を持っておるということなんです。

教えられなければわからない。そうして『教え』を聞くことが始まる。

ところが、またもや、不安であるようなあり様そのものが問われないで、
自分の都合で聞いて『教え』を利用する。

自分を本当に投げ出せないんです。

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