王舎城の悲劇(11)
観無量寿経を巡って
講師 中川皓三郎先生

□96年4月の講話より

所縁としての王舎城の悲劇

 

 我今樂生 極楽世界 阿彌陀佛所

 唯願世尊 教我思惟 教我正受

                 (無量壽経)

 

 

父を殺した我が子を持つ母、そしてその子から自分も殺されそうになった母である韋提希(イダイケ)が、
そのような(王舎城の)悲劇の中で、

「その苦しみがいったいどこで解けていくのか。」
という課題を当然持ちます。

そして、そんな課題を持つことを通して、

 

定散二善の発端を明かす

実は、その問題の解ける方向は、
「阿弥陀仏の極楽世界に生まれることでしかないのだ。」
と気付き、  

そして、

「どのようにして阿彌陀佛の世界に生まれていけばよいのか。」
と心から尋ねるのです。

 

そこで釈尊は、「定」(じょう)「散」(さん)という人間の在り方を説きます。 

三福の行を勧修することを明す。

これは一切衆生の機に二種あることをあかす。

一には定、二には散なり。   (化身土・本)

 

 

「機」とは人間のことです。

「教え」を求める、その人間は、どのような存在なのか。
観経全体で問題になっているのは、そういうことです。

我々がふつう考える仏道は、
この私から出発して、私がいろんな努力を積み重ねて仏に成っていくような道でしょう。

ところが観経であきらかににされた人間像は、
「煩悩の毒に害せられた者・凡夫」なんです。とてもそんな修行なんかできない者なんです。

この「汝は凡夫なり」という重い認識から、浄土教が始まったわけです。

清浄業者、  此明

如来以見衆生罪故、

為説懺悔之方、  欲

相続断除 

畢竟永令清浄。

         観経疏)

煩悩具足の我々を清浄ならしめる働きは、
私自身の罪、即ち真実に背いて生きているものであると懺悔する方法によって開かれてくる。

それも一度でなく、
何度も何度も続けさせて、永く清浄ならしめようと
我々に働きかけてくる働きなんです。

 

 

 

 

 

 

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