王舎城の悲劇(10)
観無量寿経を巡って
講師 中川皓三郎先生

□96年2月の講話より

時と処(ところ) 

爾時世尊 放眉間光  (観無量壽経)

如是我聞 一時佛   (観無量壽経)

時有国王 聞佛説法  (無量壽経)

 

経典には「時」がよく出てくるが、この「時」の内容は、

起化(釈尊が教化しようとする)の時です。

観経のこの部分で釈尊はイダイケのなげきをじっと黙って聞いていますね。

彼女自身の深まりをじっと待たれています。

まさに、その「時」とは、釈尊から待たれているとき。そしてまた。真実の言葉をもって、仏から呼びかけられている時です。

いつも、その時なんです。

 

○阿彌陀佛 去此不遠  (観無量寿経)

 

(観経疏)

 

 

 

 

分齋(ふんさい)遠からず、

此れより十万億の刹(くに)を
超過(こえすご)して、
即是れ弥陀の国なることを明す。

 

凡夫(私達)から出発すればアミダの浄土は西方十万億土のとても遠いところ。

でも、浄土の方からは橋がかかっている。

ある先生が言っておられたが、それが聖道門と浄土門との違いなのだと。

聖道門で、自分の方から『外』へ求めていくと遠い、遠い。

でも、浄土の方から、仏の方から、この私を捜して下さっている。
その対象である自分自身に気付けば、即是れ阿弥陀の国(浄土)だと。

これが浄土門。


釈尊、光明を放って
その中に十方浄土を現ぜしむ

(観経疏) 
道里遙かなりといえども、去る時一念に即到ることを明す。

 

物理的な道のりでいうと遠いけれど、念仏ですぐに行ける。

 

 

 

 

 

韋提希及未来有縁の衆生、

心を注(とどめ)て観念すれば、

定境相応して
行人自然に常に見ることを明す。

 

あらゆる人々が教えに縁をもって、集中して観念仏すれば、見ることができる。

 

斯(この)三の義有るが故に、「不遠」と云う也。

だから浄土はすぐ近くにあるのだ。

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