王舎城の悲劇(9)
観無量寿経を巡って
講師 中川皓三郎先生

□96年1月の講話より

厭苦から欣浄へ

 

 

 

 

「佛法に会うことは、何か大変な経験をするようなことがなければ有り得ないことなのですか。」

と問われた方がおられたが、それはそんなことではない。

私達の日常には、ささいな問題がいろいろある。それが自分を問う問いになるのか。

そのささいな問題を、そのような問いとして、私が捉えることができるのか。ということがとても大きなポイントなんです。

 

「もうイヤだ」から「とにかく清浄を願う」へ

私達はいろんな問題にでくわしますが、
その問題に、真正面からぶつかって、苦悩することができない
という私達のあり方こそが、むしろ本当の問題なんです。

世間は、いろんな気晴らしに満ちています。何とかして問題から目をそらそうとする道具でいっぱいです。

その中で私達は苦悩できなくなっている。
そして、あたかもその問題が解けるかのような幻想を、お祈りとか、お札とかでふりまき、また取り込まれたりしている。

「念仏」、ナムアミダ仏申すなんて、奇妙なことが勧められるのは、むしろ
そんな私達、人間の「解ける」という幻想から私達を解放し、
「解けない問題があるんだ。(だからこそ、その前に立ち止まり続けよ)」ということを私達に教えようとされているんです。

 

 

今向世尊

五體投地

求哀懺悔

唯願佛日

教我観於

清浄業処

 

      (観経)

イダイケはもうやり過ごすことが出来なくなった。この世の中には確かなものは何も無い、と気付いた。
自分の全体をそこに投げ出さざるを得なくなった。

最初は、「イヤなやつばっかりだ。私の周りは私を苦しめる人ばかり(私だけが善い者だ)。
だから、そんな悩みのないところへ行きたい。」と言っていたイダイケが、

その懺悔(さんげ)を通して、
「実は、その現実を生み出したのが私だ。」
ということに気付くわけです。

そして、本当にその現実に立って、
本来の在りよう変えていけるような「清浄業処」を教えてほしいと願ったわけです。

 

仏に出会わなければ決着の付かない私だと気付いた。
そこで初めて釈尊は「仏まします」と名告られる。

そのように
アミダの浄土を欣(ねが)う主体を生み出すことこそが、仏ありという証明なのです。

アミダ仏の国(浄土)を願うということの内容とは、
この私の救いが即ち全てのものの救いになる道を教えて下さい。
ということです。

 

イダイケ五体投地して
釈尊に清浄処への教化を願う

 

 

 

 

 

 

王舎城の悲劇の目次 /  次のページ